2017年12月15日

軽井沢のカーリング……20年

軽井沢のカーリング……20年

 20年前の長野オリンピック以来、町のスポーツと言い続けて、大変な税金をつぎ込んできた。
カーリングのこと。軽井沢のカーリングもようやく芽が出かかって、オリンピックへ行くところまで成長してきた。この20年支え続けてきたコーチの長岡はとみさんを始め、ご主人、西山、早野、尾崎さんらSCの皆さんの努力はさぞや大変だったことだろう。
 当初挨拶ひとつ満足にできなかった選手たちに、よく我慢してここまで付き合ってきたものだと感服のほかない。巷間スポーツ馬鹿とよくいわれるが、まったくスポーツのこと以外なにもわからず、態度だけが一流というスポーツ選手にまま出会うことがある。常識をわきまえたら、いい歳をして日々レッスンずけの暮らしはできないのかもしれない。
 町民みんなの税金で、立派なホールもできた。スタッフの協力で国際大会も開かれるようになった。
 チーム競技の名の元に、能力が落ちてもずっと選手でいられる。カーリングだけは別だから、という理屈には無理がある。チーム・スポーツは多々あるが、能力が落ちてきたらどんどん入れ替える。後輩の能力を育てるのも、スポーツの役目だ。頂点を極めて後輩に席をゆずるというのも、スポーツの美点のような気がする。

 堀辰雄の樹下で有名な追分泉洞寺に、ある時カーリング地蔵が建立された。
 カーリングという横文字スポーツと地蔵信仰にはどこか無理矢理の感もあったが、それほど檀家さんたちの興味があるということだろうと、得心していた。
 先日友人とともに、泉洞寺を尋ねた。友人は堀辰雄の同性愛への傾斜のなかでの文学について興味をもっていた。ふとカーリング地蔵に眼をやると、その隣に卓球地蔵が新しさを誇っている。卓球も近頃では、温泉場のピンポンから中国打倒のピンポンに変身して大変な人気だ。
 樹下の歯痛地蔵どころか、インスタ映えのピンポン地蔵やら、カーリング地蔵でちかごろの若者はシャメするのだそうだ。 お寺さんの有難みもどことなく薄れ、堀辰雄も遠くなったと追分に別れをつげた。 
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2017年12月12日

富岡八幡神主殺戮事件

富岡八幡神主殺戮事件

 去る9月に富岡八幡に関する心配事をブログしたが、それ以上の凄惨な事件が起こってしまった。
 姉の宮司とその運転手を、元宮司の弟夫妻が殺戮するというテレビのミステリーにも登場しない恐ろしい事件だ。この弟は自分に向けられた疑惑の眼について正当な弁明することなく、ひたすら逆恨みをしたとんでもない人間のようだ。氏子代表の弁によると、その弟はお金にだらしなく神官としての性格に著しく欠けた人物であった。

 いっぽう神社本庁からの脱退も、女性宮司を認めないという伝統的な神道の本旨にもとったことへの、反発だった。姉宮司と氏子代表も、世の中全体の無責任な人権思想に毒されていたのではないか。
 弟の出来の悪さと、姉の宗教者としての思想の浅さは、第三者からみればどっちもどっち、今時の軽い風潮が、殺人犯罪に走らせたともいえる。
 神官の殺人事件というのは幸か不幸かきいたことはないが、メディアに氾濫している殺人ミステリーをみれば、なるほどこんな大馬鹿神主も出るだろう、と想像できる。

 江戸っ子として生まれ、下町に育った筆者としては、富岡八幡には絶対起こってほしくない事件だった。

 富岡八幡参詣の折に立ち寄った深川櫓下の茶屋の奥座敷が思い出される。
 座敷の雪見障子を開ければ、眼の高さに掘割の水が流れていた。座敷が川のなかにあるような錯覚を覚えたが、江戸っ子を乗せたチョキ舟のいく昔が、なにげに聞こえてくる三味線の音に乗って視えた。忠臣蔵も雪の日の深川で起きたし、風流深川唄もここで生まれた。松尾芭蕉も奥の細道へはこの深川から出掛けた。
 深川は江戸の文化の真ん中にあった。
 その深川の真ん中で、こんな事件が起きるとは、江戸っ子にはとても我慢できない。
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2017年12月08日

「いいね」がすべての馬鹿者たちへ

「いいね」がすべての馬鹿者たちへ

 レストランで食事しても、ディズニー・ランドにいっても、目的はインスタ映えのする写真をとること。SNSに投稿して「いいね」がいくつつくか、それが最大の関心事だという。「いいね」はそうした人々の存在証明になるらしい。つねに他人からどうみられているか、どう思われているか、そのことばかり気にしている小心な若者達が圧倒的に多い。
 もっと主体的に考えたらいいとおもうが、すべて他人の評価次第では、視聴率に縛られた地上波テレビとなんら変わるところはない。いや生まれたときからテレビがあった世代にとっては、「視聴率」と「いいね」が同じ存在なのかもしれない。

 すぐる日、ある会議にでた。20人近い出席者が全員目の前にマイパソコンを開き、じっと画面に見入っている。司会が議題を述べ、検討にはいってもなんの発言もない。みなキーボードを触っているだけ。折角集まって会議を開いているのだから、全員の意見を聞きたいと思っているのだが、なんの発言もないまま、会議は粛々と進んで行く。
 しゃべらない、人の顔を見てしゃべらない。発言もしないし、本音もいわない。甲論乙駁などまったく存在しない。表面的なまったく表面的なおそらく損得勘定だけの会議であった。コミニュケーションのとれない若者とはこういうものかと理解した。

 「いいね」集めに熱中することに批判があるのは知っています。ネットよりリアルで頑張るほうが大事だ、とさんざんきかされました。でも「いいね」が沢山集って「風」がおきると皆がそれになびいて動くんです。人を動員するツールとして、今は「いいね」の数やフォロワー数がいちばん大事で、これをやらないと損するんです。…そう、君たちとは話が通じない。勝手にしたら…。

 そのうち喧嘩をしたり、悪口を言ったりすることのなかで、人間の本質とか、愛に目覚めていくんだ、ということが理解できるようになるよ。感嘆相照らさずトラブル逃避だけを心がけて、君はそれでも人間かね。安いカメラの自撮りでいくら「いいね」をもらっても、まったく無価値ということにいつか気がつくだろう。
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2017年12月06日

壇蜜ならぬ「だん滿」さん祇園に生まれた

壇蜜ならぬ「だん滿」さん祇園に生まれた

 祇園甲部に芸妓 壇蜜ならぬ「だん滿」が生まれた。
 芸妓といっても立方をする芸妓ではない。つまり舞手ではなく、唄と三味線でお座敷を務める。お姉さんは三味線のベテランだん祐さんである。京風なはんなりとした芸風よりも、どちらかと言えば都会的な歯切れのいい三味線をひくお姉さんの妹としてお披露目した。
 長唄や三味線方は年々少なくなっているので、こうした芸妓がでてくるのは、祇園町としては歓迎なのだ。

 だん滿さんは、かってロック・シンガーだった。和歌山で生まれ、関西で活躍し、のちに東京に演奏の場を移して活動していた。実姉の小愛さんの影響から、祇園に伝わるにほんの芸能に興味をもち、いつしかギターが三味線に変わっていった。いまどきの若い女性としてはかなり珍しいほうである。

 祇園町では何年か前、三味線からギターに変わった舞妓さんがいた。結局その舞妓さんは祇園を抜け、東京新橋からでて、いまでは新橋の名妓になっている。
 ギターに惚れて祇園町から引き、普通のお嫁さんになった舞妓さんもいる。そうしたなかで、ロックから三味線にかわって長唄を習っていこうというのだから貴重な存在である。この先ははたして何時まで続くか、ということだ。

 外の世界とは全く違うルールのなかで、修行をつづけなければならないので、自由奔放な都会生活を送ってきた若い女性には覚悟がいる。礼儀作法や一年とおしての通過儀礼にもこまごまとした約束事がある。そうしたことをひとつひとつ覚えながら、まずは祇園言葉を身につけて、この花街になじんでいかなければならない。
 積み重ねた歳月がはじめて三味線にうつって、祇園町のはんなりに育っていくことだろう。

 「だん滿」さんの努力と精進に期待している。
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2017年12月04日

「招き」が死んでいる

「招き」が死んでいる

 師走の京都を飾るものに、「招き」がある。
 四条通りの南座正面に60枚近い役者名の大看板が上がる。一枚の大きさは縦1.8メートル、横33センチ、檜の厚板。文字は勘亭流の芝居文字で墨魂鮮やかに出演俳優の名前が書きだされる。
 江戸時代には来年一年この小屋で芝居を演じますという契約証書みたいなものがこの劇場前に掲げられる「招き」だったのが、近年になって師走の顔見世興行の出演俳優のしるしになった。
 南座に招きが上がると、京都のまちに年の瀬がやってきて、皆忙しげに歩くようになるといわれてきた。

 今年はその四条通りに招きがない。
 劇場が使えないのだ。なんでも消防署のお達しで、耐震工事をしなければ使用禁止というのだ。おかげで今年の顔見せ興行は、岡崎にある京都会館、いまは名称販売でロームシアターという名の劇場で上演することになった。
 招きも京都会館の入り口にありますえ、というので岡崎までいかなる招きかと見に行った。結果は案の定、町衆の心を湧き立たせてくれる招きはどこにもなかった。入り口の上に招きはならんでいたが、道行く人との距離がありすぎて、全くアピールがない。招きの華やぎが皆無だった。
 公共建築物の味気無さがありありとでている。こうした建物をつくる設計者に劇場という生き物がわかっていない。界隈の賑わいを招いてこその劇場なのだが、かえって賑わいを拒否するのが、建物の特徴になっている。

 このところ、耐震問題で祇園歌舞練場も使用禁止になっている。そのため北の造形大学の講堂で都をどりも、温習会もやっているが、まつたく祇園町とは離れていて空気がつたわらない。
 そこに劇場があるからやればいいのではなく、祇園町の生きているアカシとして上演するという趣旨がまったく解離している。
 何時までこの状態が続くのかわからないが、ヨーロッパでは都市の中核として劇場があり、公共の援助によって維持されている。南座も祇園歌舞練場も京都の宝なのだから、しかるべく応援すべきではないだろうか。
 文化庁の招聘に躍起になるまえに、やることがあるのではないか。
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2017年12月02日

霜月や遠山郷に神集い

霜月や遠山郷に神集い

 信州最大のまつり、といっても華やかとか、人が集まるというのとは異なる。
 祭りの形式と伝承という面で、もつとも重要な信州最大のまつりなのだ。そこには諏訪御柱祭のようなダイナミックなシーンはない。善光寺ご開帳のような賑わいもない。心に染入る人々の命の営みが、その祭りにはある。三信遠地域と呼ばれる愛知、静岡、長野の県境に位置する中部日本のチベットとよばれる山間部に伝わる祭りである。
 奥三河では花祭とよばれ、遠山郷では「霜月まつり」とよばれてきた。筆者も50年前から、民俗学の先輩である吉永淳一先生に連れられ、一度ならず五度、十度、軽井沢に住まいをうつしてからは毎年のように遠山郷に足を運んだ。 その霜月まつりが、今年も無事始まった。

 中立の正一位稲荷神社に始まり、まつりは遠山川のそこここにバトンされて行く。中郷、小道木、木沢、上町、そして耕して天に至る下栗の里、和田、程野、八重河内、と九つの集落をつないで祭りは終わる。12月1日に始まり、12月15日に最終日をむかえる。昼夜をとわずそのあいだ、集落のひとびとは祭りに集中して神とともに日々を迎える。

 夕刻、しばれる寒さのなかで茣蓙に座り、八百万の神々に声をかけ、お集まりいただきたいという神降しから始まる。神々の名を読み上げるだけでも2時間はかかる。祭場の中央には大きな窯が用意され、湯がにたぎっている。その湯のなかに神様が勧請されてから、まつりは始まる。
 そこには湯立神楽の古い形が伝承され、時代とともに簡略化されたとはいえ16.7時間に及ぶ形式が守られている。窯のうえは紙で作られた神座が飾られ、煮えたぎった窯から立つ湯気に泳いでいる。
 深夜祭りの途中に登場する面役は、凍った川に入り、身を清めて控える。いくつかの舞をへて、飛び回るキツネ面の稲荷と山の神の押し合いになるころには観衆と神とが一体になって場内は騒然となる。
 やがて水、土、木、火の四面の大面が登場し、湯切りの神事となる。熱湯に素手を入れた大天狗は湯を切って観衆に掛ける。逃げまどいながらも浴びた湯によって心身ともに禊ぎをうけ、悪霊の退散を成し遂げて、会衆はそれぞれの帰途につく。20時間近い興奮の一夜から静寂にもどった祭場をあとにする山間の情景には、こころが洗われるような感動がある。

 命の再生を願うこの霜月まつりが、いつまでもこの裕福とは言えない山間に生き続けて、人々を守り続けてくれることを祈らずにはいられない。 
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2017年11月30日

パリに戻ってきたPARISコレクション

パリに戻ってきたPARISコレクション

 2018年春夏のPARISコレクションがようやく終わった。
 伝統あるパリ・オートクチユールの春夏と秋冬に分けたファッション・プレゼンテーションは、それぞれのメゾンのオーナーが変わって少しカタチが変化するかとおもったが、全く影響なく相変わらず一年二回のショー形式を踏襲している。現在パリの多くのメゾンを支配しているユダヤ系資本が考えても、これ以外の有効なパブリシティ戦略は浮かばなかったのだろう。

 さて来シーズンのコレクションで目立ったものと言えば、… 圧倒的なバリ回帰現象だった。
 世界中で猛威をふるっているカジュアル一辺倒のストリート・ファッションに対し、アンチ・テーゼを表現するには、パリという原点に戻ることが最速最良と多くのメゾンが考えた。つまりモードの再興をめざす舞台として、ふたたびパリに帰ってきたともいえる。
パリでしか創作できないものを目指して、選ばれた背景ももっともパリらしい場所が選ばれて、それぞれの個性をきそった。

 エッフェル塔を望むトロカデロ宮殿の庭を選んだのは、サンローランだった。日没とともに始まるエッフェル塔の電飾に合わせて、ショウが開かれた。モデルたちはエッフェル塔を背に晴れやかに登場した。まさにパリの物語とファッションが一体化した瞬間だった。

 オペラ座ガルニエ宮の回廊を舞台に、豪華絢爛な空間とリアルクローズの対比を演出したのはバルマン。そこにはこのパリでしか体験できないタイムレスな美の世界が次々と登場した。

 ルイ・ヴィトンは、ルーブル美術館地下の昔の城壁のあった空間をバックに、ロココティストとスパーティブの融合を試みた。この空間はルーブルの地下に存在する不思議な歴史的空間で、筆者も二年前ここで写真作品をディスプレイした。

 パリ装飾芸術美術館を会場に選んだのは、ディオールだった。ディオールはアートと伝統をモチーフに創作し、夢のクチュリエを提示した。

 デザイナー達は一様にパリでしかできないものを目指し、ジョセフ・アルシュザラはニューヨークで10年重ねてきたコレクションを畳んで、パリ市庁舎でショーアップした。パリ市庁舎を舞台に発表したのは、ドリス・ヴァン・ノッテンもいる。市庁舎のもっている荘重さがファッションにマッチするというのもいかにもモードの都らしい。
 ビジネスのニューヨークから、創造のパリへ、 この傾向はしばらく続くような気がする。。
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2017年11月29日

ニーハオ・トイレの行方

ニーハオ・トイレの行方

 「ニーハオ・トイレ」ってなに?
 中国の間仕切りのない公衆便所のことを、かの地の人々はそう呼んでいるらしい。間仕切りがないので、頑張っている時でも、隣りの人と目線があってしまい、ニーハオと挨拶せざるを得ない。悪臭も強く、外国人観光客からは評判の悪いことこのうえない。
 一帯一路のお家元としては、どうにも体裁わるく、この程、習近平国家主席の命令により、公衆トイレ美化運動「トイレ革命」が発動された。

 北京、上海など大都市圏の住宅街や古い集落ではいまだに自宅にトイレがなく、、古い共用の公衆トイレに頼っている例が多い。川の共同洗濯場や、おな洗いの共同温泉とは異なり、お尻丸出しの大小の処理場なので、開いた口がふさがらない。
 こうした公衆トイレの管理者のなかには、勝手に料金の徴収を行っているものもあり、全国的にトイレ環境の改善には何年かかるか判らないと報じる向きもあり、習近平のトイレ革命は、はたして吉とでるか、凶とでるか、観光業者たちも声を潜めて見守っている。

 戦前中国の田舎では、玄関入口の前に穴が掘ってあり、すべてその穴が大小を引き受けていたので、町は臭気と蠅の多さに辟易としたと伝えられていた。そうしたオープン・トイレの習俗はいまに生きていて、なかなか通り一遍の命令では治らないといわれている。なによりもトイレにお金をかけたい、という機運がゼロだという。

 習近平は重要指示として「庶民の暮らしの質で、不足しているものを補うため、一層の努力をすべきだ」とトイレ革命の強化を指示したと伝えられている。
 トイレの質的向上のため隣国ニホンを見習うべしとは、云わなかったらしい。
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2017年11月27日

フラリーマンに幸いあれ

フラリーマンに幸いあれ

 政府の働き方改革の推進によって、耳なれないサラリーマン層が発生している。
「フラリーマン」と呼ばれている。発生区域はもっぱら駅周辺の繁華街、もしくは飲食店街だといわれている。
 いままで、会社で夜遅くまで勤勉に働いていたサラリーマンが、働き方改革によって、5時になったら帰りなさい残業は許しません、ただしノルマはありますから昼間にしっかりはたらいてください。といった上司の命令によって行き場を失ってしまったのだ。企業は残業代カットにより、ますます人件費が節約でき、すくなくとも5兆円もの内部留保が拡大している。

 定時とともに会社から放り出されたサラリーマン達は、しかたなく身近の遊弋地域に流れる。
 行きつけの居酒屋、なじみのいるキャバクラ、童心に帰ってのゲームセンター、などなど、思わぬところで働き方改革景気が起きている。会社が終わってまっすぐに帰れないサラリーマン達が、いっせいにフラリーマンになるのだ。

 新宿思い出横丁の宝来家も、渋谷のんべい横丁の会津も、吉祥寺ハーモニカ横丁の花ちゃんも、最近は口開けと同時にこむという不思議な現象が起きている。生真面目なフラリーマンは、真っ暗になった公園のベンチでレシーバーを耳に英語の勉強に励んでいる。パソコン・カフェなども順番待ちが廊下にはみ出している。家に帰りたくとも帰れないフラリーマンが増殖している。

 共働きが多く、早く帰っても邪魔にされる。女房が仕事を終わって帰宅、晩飯の用意が整ったころ、子供も塾から帰って、(*>∀<*)ノただぃま★というのが、家庭平和のコツということらしい。家庭を支えながら、家庭からはみ出してしまった男たちの悲しい現実がこれだ。 フラリーマンに幸いあれ!
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2017年11月26日

琵琶湖疎水通船67年ぶりの復活

琵琶湖疎水通船67年ぶりの復活

 京都の殺人ドラマに必ずといっていいほど登場するのが、南禅寺の境内にある水路閣だ。
 煉瓦作りのアーチ状の水路閣は、どことなくヨーロツパ風でもあり、京都の風景とはいまいち違和感があるのだが、ローマを思わせるアーチと南禅寺庭園とのミスマッチに人々は魅せられてきた。
 アーチの下で出会いがあり、アーチの下で別れがあり、ときにアーチのしたで殺人があって、京都におけるドラマ風景露出のベスト・スリーに上げられるかもしれない。
 あの煉瓦のアーチの上は、琵琶湖から京都へと水を引いた疎水が流れていると教えられるまでは、何年かかかった。

 明治の初め都が東京に移され、失意の京都の人々による一念発起の大事業として琵琶湖疎水は建設された。大津の三保ケ埼から取水された疎水は、大津、京都、伏見、宇治をむすび、単なる水運にとどまらず、日本で初めての水力発電をし、水道水の供給源となり、灌漑、下水道の掃流、あるいは工業用として働いた。
 いまでも京都から滋賀県に対し、毎年二億二千万円の疎水感謝金が支払われている。公共水道の資源として疎水はいまだに寄与している。

 その疎水に67年ぶりに、観光船としての琵琶湖疎水通船が復活する。来年春と秋を中心に82日間の営業をするという。区間全長8.7キロ、蹴上から大津行4便、大津から蹴上行5便を、平日4000円、土日祝5000円、桜や紅葉の大型連休中は8000円、という料金で運行する。蹴上のインクラインでお花見をしたり、蹴上水力発電所をひやかすだけではなく、是非この疎水通船を体験してほしいというのが運行会社の願い。 ちなみに二艘の新船の建造費は、京都のふるさと納税でまかなったそうだ。
 疎水べりには、疎水工事の一環として多くの桜を植えたといわれているので、京都の水と桜の名勝がまたひとつ増えたことになる。
posted by Kazuhiko Hoshino at 13:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする