2017年01月19日

韓国のやらずぼったくり

韓国のやらずぼったくり

 韓国は本当に困った国である。
 1965年の日韓基本条約によってすべて解決済みのはずが、国家間の約束をすべて反故にして少しも恥じることがない。ウィーン条約をはじめ国際間の取り決めにも全く意を介さず、自分たちの勝手な理屈をもちだして勝手なことをする。世界という秩序のなかでの国家ではないのだ。
 詐欺と脅しの常習犯であり、歴史的事実もなにも関係なく因縁をつけてくるならず者の集団、それが韓国だと思うしかない。

 なかでも韓国挺身隊問題対策協議会という団体は始末がわるい。
 慰安婦像をそこらじゅうに設置することが唯一の目的になっている。ヴェトナム戦における韓国兵の性処理の問題など一切拭って、あたかも日本人にのみ存在したかのように慰安婦像をつくりまくっている。
 その元を作った朝日新聞すら誤って反省しているのだが、韓国人は聞く耳をもたない。朝日新聞の自虐史観にも困ったもの、メディアとしての権力批判姿勢に、教条左翼が加わって日本国を貶める論調に固まっている。最近はそれも少しずつ剥げて、購読紙数は坂道をころがるように減り続け、ついに社長みずから、不動産屋への転向を示唆する事態に追い込まれた。

 従軍慰安婦記事をねつ造した犯人、朝日の植村隆元記者は、呆れたことにちゃっかりと韓国カトリック大学の教師になりすまし、あいかわらずの慰安婦と強制連行の虚偽を語っている。植村記者は日本と韓国の間に拭いがたい溝をつくったのだから、戦時における性の問題を歴史的に検証し、ふたつの国の誤解を解くような活動をすべきだろう。朝日新聞も社会の公器としての責任を感じるなら、韓国の慰安婦設置問題がかたずくまで、韓国メディアを通して歴史の真実を明らかにする活動を続けるべきだ。
 愛国心の欠落した新聞記者と新聞社にはあきれるばかりだ。

 日本は10億円を使って、慰安婦像の増殖とやはり韓国は信用できないという分かりきったことを学んだのだ。
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2017年01月18日

「カメラのきたむら」閉店・終わりの始まり

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 六本木に居たころは、フィルムの御用はいつも新宿西口ヨドバシ・カメラだった。
 ポジで撮影するコダックのフィルムは他には置いてなかった。フィルム用の携帯冷蔵庫を持参して、20本、40本とフィルムを買ってきて撮影に出掛けた。
 のちに軽井沢に移ってから信州のお祭りを500程も撮ったが、その度ごとに現像は東京のドイ・テクニカルに送っていた。長野の現像所がいまいち信用できなかったからだ。
 それが何時の頃からかデジタル・カメラの普及とともに、フィルムにとってかわったのがメモリーカードだった。専門家はフィルムに比べ、メモリーカードの映像の浅さとか種々論じるが、実際に使ってみるとさほどのことはない。つまりフィルムの現像というプロセスが消滅してしまった。駅前の写真屋さんも何処かへいってしまった。

 遠い地の撮影でも道中巡り合った「カメラのきたむら」で間に合った。忘れたフィルターやSDカードの補充は「カメラのきたむら」で随分世話になった。不要になったカメラやレンズの処分も、たいてい「カメラのきたむら」にまかせた。地方に於ける趣味のカメラのベースキャンプが、「カメラのきたむら」だった。

 近年スマホの普及と共に、「カメラのきたむら」もいらなくなった。スマホ写真の無料プリント機を置いたり、七五三写真や成人式の晴れの写真コーナーなど設置してなんとか経営立て直しに奮闘してきたが、ついに赤旗をかかげた。全国450店舗一斉に閉店となったのだ。
 デジタル時代への対応を誤ったといわれているが、町の写真屋さんが消え、「カメラのきたむら」が消えては写真の置かれている位置も根本的に変わっていくだろう。

 素人の楽しみとしての日常的なスマホ写真と、ほんの一握りの作家たちのための現像所、そしてあとは大規模家電量販店の片隅に生き残った写真コーナー、いつか6月1日写真の日だけが生き残って、写真は供養される対象になってしまうのだろう。
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2017年01月17日

雅子皇后への心配事

雅子皇后への心配事

 いよいよ徳仁天皇誕生、2019年1月1日に決定! と報道された。
「徳仁天皇」と「雅子皇后」が誕生する。元号が改まり、新しい天皇、皇后が即位されるのだから、国民は期待に胸膨らませ、世の中は一気に明るくなる。筈なのだが、気分は一向に高揚しない。
 何故かと考えるに徳仁皇太子と雅子皇太子妃に、天皇の後継にふさわしいイメージがない。天皇皇后を見習って、被災地のご訪問をされても、現地の勉強をされずに一通りのお言葉だけで、尊崇の気持ちが湧かないご夫妻だと、被災地の人々からきこえてくる。

 賢所における宮中祭祀にしても、ここ十年、雅子妃は一度も列席していない。
 適応障害、つまり宮中におけるいろいろの祭儀に参加できない病なのだ。国民のために祈る立場の天皇家にとって、もっとも相応しくない病を患っているのが雅子妃なのだ。
 こうした人が天皇家を継ぐというのは、国民にとって釈然としないのも当然だろう。

 皇太子が折に触れ新しい皇室像を等といわれると、神道の家元として「国家国民の平穏無事を祈るという祭祀」を止めてしまうのではないかとすら、勘ぐりたくなる。

 正月の歌会始に詠まれる歌にしても、雅子妃は吾子愛子のことばかり詠っている。
  十一年前吾子の生まれたる師走の夜 立待ち月はあかく照りたり
  月見たしといふ幼な子の手をとりて 出でたる庭に月あかくさす
  那須の野を親子三人で歩みつつ 吾子に教ふる秋の花の名 ……
 見事に愛子愛子で、徳仁天皇即位とともに皇后として、国母の役割りがまっているという意識が全く感じられない。
 これでは雅子皇后になるよりは、小和田雅子になった方がはるかにいいのかもしれない。
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2017年01月15日

買い物移動車より御用聞きを復活せよ

買い物移動車より御用聞きを復活せよ

 お米屋さんは勿論のこと、お肉屋さんも、魚屋さんも、八百屋さんも、それぞれに御用聞きというシステムがあった。朝一の牛乳屋さんから夕方のお豆腐屋さんまで日々の暮らしに必要なものは、みな商家さんの方からやって来た。だから夕方になってもお魚屋さんが見えないと、どうしたのかしら風邪でもひいんたんじゃない、といってお魚屋さんに果物を届けたりしていた。お刺身にしてほしい、焼き魚が食べたいわ、といえばそのように加工して届けてくれた。普通の家庭と商売人の距離がそれほどに近かった。だから御用聞きのみえる裏木戸や勝手口はいつも鍵がかかっていなかった。お正月のお餅も、お宅は伸し餅が二枚、丸餅がいくつ、お供えが五組、そして豆餅が一枚といったふうに、ちやんと記録してあって、確認のための御用聞きに改めてきた。そしてそれと一緒にカレンダーを届けてくれた。

 そんな昔を暮らしてきたので、表札もださず、鍵をかけ、同窓会名簿にも住所を隠して、プライバシー、プライバシーという近頃の風潮は不思議でならない。そんなに隠すことがあるのか、ひょっとして犯罪でも犯したことがあるのかと、勘ぐってしまう。

 ところで買い物難民がふえ、食料品や日々の必需品を買いに行けない「買い物難民」が全国で700万人に上ると発表された。過疎地の話ではなく、都会の真ん中でも深刻な問題になっているそうだ。
 そこで大手スーパー、コンビニがそろって移動販売に乗り出すことになった。各社とも「買い物困難地域への対応は企業の社会的責任」などといかにもの地域社会への貢献をかかげているが、そんものはお笑い草だ。そもそもの小売業というものはユーザー一人一人に寄り添ったもので、その為の御用聞きがあった。そういうものを全部なくして利益一辺倒の経営をしてきた結果が、買い物難民を産んだという自覚がない。

 いま日常必需品までスピーディに届けてくれるアマゾンの出現で、慌てているのは小売屋一同なのだ。水やティシュはアマゾンに注文、ドアの前まで来るから楽なのよ、そんな知人もいる。移動販売も結構だが、この際いっきに御用聞き平成版を考えた方が、いいのではないだろうか。
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2017年01月14日

平成落語に空前のブーム

平成落語に空前のブーム

 談志という伝説が終わって、ようやく今空前の落語ブームがきたといわれている。

 小三治、志の輔、兼好、喬太郎、一之輔、白鳥、小遊三、白酒、昇太、談春、権太楼、雲助、さん喬、談笑、市馬、三三、彦いち、などなど…
 1980年代末、バブル崩壊とともにやってきた関西お笑い界、吉本、松竹を中心にしたナンセンスな笑いに
負けていた江戸方の笑いは、ここへきて力をつけてきた。
 ひろ木、三朝、小八、ときん、馬るこ、こみち、三木男、志ん八、桃之助、和光、志の春、わさび、小痴楽、正太郎、鯉八、ぴつかり、昇々、小辰、宮治、吉笑、などなど…

 テレビに於いてNHKの早朝にしかなかった落語が、民放において笑点というただひとつの牙城にたてこもり、大喜利という遊びから、ようやく息をふきかえした。関西系のドタバタしたものにしか笑わなかった人々が、ようやく言葉を武器にした少しばかり知力のある笑いに関心を抱くようになった。永らく死んでいたイキが人々の暮らしにもどつてきた。日本語の言葉遊びを楽しむゆとりが人々の心に芽生え始めたのだろう。

 東京では、昔からの寄席に加え、町なかに寄芸を楽しむ空間も増えた。
 神保町の「らくごカフェ」、丸山の「渋谷らくご」、神楽坂の「あかぎ寄席」、神田「連雀亭」、雑司ヶ谷「cafe囀や」、庚申塚「スタジオフォー」、「茶や あさくさ文七」、高円寺「HACO」、西新宿「ミュージックテイト」、全国県庁所在地にあるらくご茶屋や、市民会館などのホール落語、一握りのスターにしか当たらなかったスポットが、二つ目、前座にまであたるようになった。言葉の笑いについてどこまで時代と寄り添っていけるか、それこそが次代を担う人々の肩にかかっている。

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2017年01月13日

年寄になりたい白鵬

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 国籍問題が姦しい。
 内閣総理大臣になる可能性のある野党第一党の党首が、日本人なのか、台湾人なのか、よくワカラナイのはとても困る。国民の生命、財産を守る仕事とする総理大臣の国籍があいまいなままでは大変に困るのだ。
 ぬるま湯で育った近頃の日本人は、グローバルな教育のおかげで、そんなのどっちでもいいじゃんと、寛大なのだが、ひとたび紛争が起きれば、生きるも、死ぬも、国籍次第という場合もある。

 もう一つの国籍問題は横綱白鵬だ。
 優勝回数37回大相撲史上最強と言われながらも、横綱白鵬の帰化問題がすっきりしない。引退後も年寄になって部屋をもちたい。通算勝ち星で、歴代一位になれば当然協会は、モンゴル国籍のまま、一代年寄をみとめてほしい、というのだが協会は「年寄名跡の襲名は、日本国籍を有する者に限る」と規則を盾にいい返事をしない。
 白鵬自身も9年4月の会見では「日本国籍を取得して親方になりたい」といっていたのだが、いつの間にか前言をひるがえした。故郷モンゴルの父親がモンゴル国籍をすてることに絶対反対だとか。日本人の嫁も認めず紗代子夫人との結婚の折も、白鵬は父親に紹介しなかった。
 そうした前後の事情をわきまえれば、当然のごとく帰化して部屋持ちの親方へと転じたらいいのだが、まわりに焚き付ける困った人間がいるようだ。

 相撲をサッカーやバスケットと同じスポーツと考えている。国から莫大な助成を貰い、神事としての側面を持つ、大相撲の認識にとぼしいのだ。勝ちさえすればなんでもいいという娯楽スポーツとごちゃまぜにしている。リング上の格闘技とは全く違うのが大相撲なのだ。
 協会は入門するときだけではなく、関取に昇進するときにもういちど「相撲の祭祀性、もしくは相撲民俗学」を徹底的に教育すべきだろう。困ったときの外人頼みでは、何時までもこうした問題が続くだろう。

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2017年01月09日

新成人、ピンからキリまで

新成人、ピンからキリまで

 例年のごとく成人の日がきた。
 町や村の役場はなにも考えることなく、例年の通りに成人式を開いている。型通りの町長の祝辞、来賓の祝辞と、成人の祝いの言葉をきいて、新成人はどれだけ心に残ったのだろうか。
 女性は云い合わせたように、派手な振袖に大きなアクセサリーを頭にのせた白襟巻の、美容院メニューそのもの。男性は茶髪にきもの、袴といったこれまた個性のない貸衣裳ルック、言うことは一人前でも、センスがまったくない自分で考える力がない。男女とも業者に踊らされたはなたれ小僧が多い。

 「きょうの主役は俺だ」赤いキモノを着て「目立ちたいから暴れた」と言い放ったつくば市の新成人にはあきれた。身体だけがオトナで、知恵オクレのどうしようもない新成人なのだ。成人式を妨害し中止に追い込んで本人は満足なのだろうが、付き合わされた良識ある新成人や、列席した大臣はたまらない。現行犯で逮捕された新成人をみて、つくづく教育の大切さを感じた。赤いキモノも、異常行動も、目立ってなんぼのユーチュウバー、情報化社会というのはこんな鬼っ子も生み出す。

 なかには心うたれる成人式もあった。
 東北大震災にあった宮古市の新成人は、あの惨禍を体験して、みんなの生命と身体を守り、財産も守れる消防士をめざすと誓っていた。 札幌の大通りでは、雪まつりの雪像づくりに動員された自衛隊二人の新成人が、上半身ハダカになって、同僚たちに雪中に投げ込まれていた。 寒中水泳もあったし、アベノハルカスでは60階まで1637段の階段登りに汗していた新成人達もいた。

 目立ちたいためにツイッターに投稿したがる新成人より、「当り前のことを当たり前にできる大人になりたい」といった新成人の言葉が心に残る。

posted by Kazuhiko Hoshino at 18:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

地上波からネツト時代へ

地上波からネツト時代へ

 地上波のテレビは終わったという声が高い。
 ニュースひとつとっても、情報連絡だけで、その情報の原因をつきとめるとか、責任をつくとか、そういった姿勢はない。予定調和ばかりで上っ面を撫でて番組をおわる。それならばネット・ニュースで十二分なのだ。
 なかには、ネットのニュース・ランキングを紹介しておわりという地上波ニュースも存在するが、そんな自虐的な番組作りをしなくともいいだろう。少しまえのテレビには、その日の新聞を広げて、ニュースをつたえる番組もあったが、いずれもニュースにたいする主体的な製作姿勢がまったくみられないという特質がある。
 なかにはフルダチのごとく、早口だけで番組が成立するといった恐るべきカン違いもある。中途半端なタレントを並べても誰も関心をもたない。

 バラェティにしても、バブル崩壊の助っ人として関西から登場したが、予算削減の役割りはおわり、いまやクイズ番組やら旅番組、グルメ番組のツマになっていることが多く、本来のお笑いとはほとんど関係のない場所で仕事をしている。がテレビの場に下品な言葉や、下品な趣味、とくに衣裳において圧倒的に下品な感性をもちこんだ功績はある。関西系お笑いの品のない衣裳になれてしまうと、ジャニーズ系の趣味の悪い芸人衣裳が気にならなくなるという効能はある。

 ドラマにしても、視聴者の関心は役者よりテーマに移っている。役者を売り込んでも誰も見ない。昨年の傾向をみても、契約結婚と若者の実態だったり、不動産屋で働く女子エリートのゴーだったり、校閲ガールの裏表 とかっての人情噺とはまったく違うところに視聴者の関心は移っている。ミステリーにしても登場する刑事の人情噺はいらない。主役となる相棒がどんな生活をしてるかは見たくないのだ。ひたすら犯罪の核心に迫ってくれればいい。

 娯楽も情報も、地上波テレビより、ネットで見る時代になってきた。
そうした面からAMEBA テレビの展開は正しいのだが、まま地上波コンテンツの作り方が入り込んでいるところが残念だ。スタッフの頭が切り替わっていない。あなた達が今まで作って来たやりかたは、完全にあきられているのだ。
posted by Kazuhiko Hoshino at 17:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月07日

どれくらい私のこと好き?

どれくらい私のこと好き?

 「どれくらい私のこと好き」
 つきあいだして二つ、三つの障壁を超えると必ず浴びせられる質問である。このとき曖昧な返事や適当な受け答えをすると、後にたいへんな眼にあう。女性はホメ言葉にすら、工夫と芸術性とオリジナリティを求める。
 「世界中のどんな薔薇の花より君が好き」通俗すぎてこれはいけない。
 「僕の頭のなかの女性には君の名前しかない」そう言いながら、玲奈のこと加奈のこと美沙緒のこと、走馬燈のごとくに思い出していると、すぐばれる。どうしても言葉が浮かばなければ、このくらい好きだといってやや暴力的にキスするしかない。それなりに容姿に自信があり、自律的かつ個性的な女性でも、具体的な行動は言語を超える。
 自分からアプローチしてきたジェンダーフリーの女性でも、往々にして気まぐれで、わがままで、ヒステリック。脳みそのスイッチが突然切れて、肉体のスイッチがオンする。
 要は絶望的に「オンナノコ」なのだ。先進的な恋愛観をもつた自由な女子だつた筈なのに突然に人格が入れ替わる。

 すこしずつメンドウくさいオンナノコになり変わっていく。
 結婚記念日、誕生日、クリスマス……工夫のないコミュニケーションや自分への注目がたりないことは、絶対に許さない。たとえ容姿が崩れても、オトコノコは褒め続けなければならない。
 が時間を重ねれば当然のごとく、男の脳は節約モードに移って行く。初めの頃考えて紡いだ言葉は、獲物をとる燃料であってとっくに消滅している。獲物をとる道具と捕獲した獲物を維持する燃料はまったく異なるということが、理解されない。

 オンナノコは一定の時間がたつと、一様に不機嫌になる。プライドの高い文科系女子は、現実を消去して不倫に走る。オトコノコは消去できずに、一生保存して思い出にしがみつく。オトコノコは、心の壊れた女性を追い続ける属性をもっている。

 「君の名は」に始まった2017年は恋愛ドラマ再興の年になるかもしれない。面倒くささのない恋愛ドラマがみたい。



posted by Kazuhiko Hoshino at 14:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月05日

キチキチからダブダブへ

キチキチからダブダブへ

 街になんとはなしにバブリーな風が吹き始めた。
 ついこの間まで、タイツやレギンスでぴちぴちの肉体線を誇っていた女たちが変わってきた。ダブダブ、ゆるゆるのラインになってきたのだ。ファションに敏感と自称する女ほど、ユルユル・パンツをはいている。
 揺れる31才の綾瀬はるかの今も、うっかりあるくと裾をひっかけ吉良邸で受けそうなハカマ・パンツをはいていた。
 パンツ・ファッションはここぞとばかりデニムもウールもポリもみんなだぶだぶなのだ。
 この冬のトレンドはフルレングスのユルユルの上に毛皮のブルゾンなど羽織ることと見つけたり。スキニーな細身パンツは、ユニクロやらZARAあたりにいかないと手にはいらないかもしれない。

 ついこの間まで、これがトレンドよとウインドウを飾っていたファッションを、たちまちシーズン遅れ、古着と化かして次を売り込むファション産業は、電通の上を行くブラック企業かもしれない。生地はしっかりしてるし、破れてもいない洋服に、流行遅れのレッテルを貼って次々と破棄させるビジネス・モデルがいつまで持つのだろう。中小のファッション企業は、いま視界不良に陥っていると言われる。消費者が買わなくなっている。
デパートにも行かず、専門店にも足を運ばないユーザーが圧倒的に増えている。彼等彼女等はネットでゆっくりと選び、店頭での衝動買いから引き上げているのだ。

 素材感が女つぽいトロミのコーデは、いかにもアッシー君むけのお色気がこぼれて居る。膝下ミモレ丈のゆったりスカートは、大きくスリットを入れ誘っている危うさがデザインポイント。知的なプリーツスカートも、金や銀で、真面目さだけではダメ、夜のお遊びだつてプリーツよ、とすべてがバブリーぽくなってきたのだ。
posted by Kazuhiko Hoshino at 17:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする