2016年06月30日

アラブ文化のいちにち

アラブ文化のいちにち アラブ文化のいちにち

 Jean-Nouvel ジャン・ヌーヴェルという建築家がいる。
 パリのアラブ世界研究所を設計して一躍世界の建築界から注目をあびた。光の反射や透過によって建築物の存在が消えてしまうような建築を多々つくっている。「消失する建築家」とよばれているが、カルチエ現代美術財団の美術館を設計したり、日本では築地の電通本社ビルを設計し、2001年の高松宮殿下記念世界文化賞をうけている。
 この光の天才が設計したのが、セーヌ川畔に建っているアラブ文化のメッカ、美術館と資料館と研究ゼンターをひとつにしたアラブ世界研究所である。
 イスラムのテロばかりを恐れていてもしかたのないこと。ある日の午後、アラブ世界研究所に足を運んだ。噂通り窓の不思議さがいちばんさきに眼に飛び込んできた。アルハンブラ宮殿の天井にみるようなアラベスク文様の巨大なガラス窓、光の強弱によってガラスに浮かんでいる文様が変化するという。レンズの原理で変わるというのだが、いまいち充分な理解にとぼしい。が、パリの真ん中にこれほど巨大なアラブ文化センターが存在する
というのが、いかにもふところの深いフランスらしいと感じた。
 屋上からノートルダム寺院の後ろを望み、対岸のアパルトマンにレンズを向けて、アラブ世界研究所をあとにした。
 どうせアラブという異界にきたのだからと、近所のモスクへ、ということになった。パリに住むイスラム教徒にとってもっとも聖なるモスクは想像を超えた立派さだった。一隅にアラブ・レストランがあった。まず腹ごしらえという訳で、タジン鍋のレンズ豆のなんとかいうものを食したが、あまり口にあわなかった。
食後ここまできてモスクへいかないのはばちあたりと、塀ずたいに巨大なモスクを訪ねたが、遠くからコーランの朗読する声が聞こえるのみで、玄関払いをくった。
 外にはマシンガンを抱えた兵士が数人ずつ組を作って、モスクの周りを警備していた。
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2016年06月29日

「BENTO&GO」「十時屋」「京子」

「BENTO&GO」「十時屋」「京子」 「BENTO&GO」「十時屋」「京子」 「BENTO&GO」「十時屋」「京子」

 外國で通用する日本語といえば、ついこの間まで「フジヤマ/ゲイシャ・ガール/サムライ」だった。それが最近のインバウンド・ブームとともにだいぶ変わってきた。
 スシ/ラーメンは先駆者だが、今ではウドンが通用するし、半可通のニホン・マニュアの間ではソバというのも市民権を持ちつつある。
 最近のパリでは、「サケ」というのが、広がりつつある。サケ・バーやらサケ・レストランといつた具合である。毎年あるワインの品評会に、日本の地酒メーカーがこつこつと参加して宣伝これ務めてきたのが、ようやく実を結んできた。
 最近登場の和製仏語に「BENTO」弁当というのがある。
 リヨンの辻調理学校をでた立花剛というシェフが、3区の18 Rue Notre Dame de Nazarethに「BENTO & GO」という店を出し、少し気取ったニッポン発の弁当で奮闘している。
 昔からオペラの近くには、「十時屋」という弁当やがあり、味もそこそこで在パリの日本人は重宝してきた。
十時屋には、焼肉弁当、ハンバーグ弁当、シャケ弁当、てんぷら弁当、かき揚げ弁当などあり、副菜3品はフリーチョイス、例えば酢の物、ポテトサラダ、もやし、おひたし、云々とかなりのメニューが揃っている。今回の撮影行では、十時屋のかき揚げ弁当に随分世話になった。一人暮らしや若者にとって、コスパに優れた弁当屋といえる。
 十時屋のそばには、韓国料理の弁当やもあり、焼肉好きはそちらを利用している。便利なことに更にその近所に「京子」という名の古い日本食材スーパーもある。今月の京子は「冷やし中華」大売出しといつた具合だ。京子はインスタント・ラーメンのとなりに「歌舞伎揚げ」や「三幸の塩揚おかき」などなにげに置いてあり、日本人のいやしさをさりげなく演出している。



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2016年06月28日

16区のマダムに愛されて。

16区のマダムに愛されて 16区のマダムに愛されて

 この場合の16区は居住区をさす場合もあるが、異なるニュアンスも多々ある。
「美しい素敵な」あるいは「蠱惑的な」「情熱的な」もっと言えば「時間をもてあました浮気なマダム」という場合もあれば、「お洒落で若さを失わないマダム」の例もある。この場合は「グルメでお金持ちの」といった意味である。
 ここでマダムに愛されたのは、「CARETTE カレット」というサロン・ド・テだ。紅茶党としては、カフェのつるし首の紅茶よりも、ポット・サービスのサロン・ド・テの真心こもった紅茶に当然のごとく票をいれる。
 場所はエッフェル塔の対岸トロカデロ広場に面したサロン・ド・テ、何軒かのカフェにはさまれた老舗である。そんなに大きくない。大きくないがどことなくシックな雰囲気が漂っている。
 細番手の黒いセーター、深い黒のミニスカート、黒いタイツ、そして艶のある黒のエナメル・シューズ、ラウンドネックのセーターから粋にとびだした白い襟、仕上げはやはり黒のちいさなエプロン、サービスの女の子たちはみんなスリムでキュートな魅力にあふれている。半世紀まえのドアノウの写真にでてくるパリジェンヌのような。隣近所のカフェがみな男性スタッフなのに、ここカレットだけが女性スタッフのサービスなのだ。
 16区のマダムのお薦めで訪れたが、テラスから中に入って驚いた。店の左側壁一面に大きくディスプレイされているのが、パティスリーのコーナーだった。店の半分近くをパティスリーが占めている。エクレア、ミルフィーユ、サントノレ、オペラといったクラシックなお菓子から、今様な飾り菓子まで華やかにならんでいる。カナッペと言われるフィンガー・サンドから自慢のクロアッサンとかなりのレパートリーだ。
 フイガロ誌からパリ・ベストの賞を受けたエクレア、かつて一日の終わりをコーヒーと美味いエクレアで締めくくりたいといっていた室戸の徳増君の顔を思い出す。マカロン大賞で驚くべき部門グランプリを得たというマカロンも名物になっている。
 紅茶はもちろんのこと、ケーキも美味しく、そのうえ女の子たちのキュートな魅力、妖しい魅力の16区のマダムがいなくとも、十二分に満足できるトロカデロの「カレットCARETTE」だつた。

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2016年06月27日

コレツト・時代を先取りした愛の殉教者

コレット・時代を先取りした愛の殉教者

 ペール・ラシェーズの墓地で偶然にであったのが、コレットの墓だった。
 フランスの女性ではじめて国葬になったのはシドニー・ガブリエル・コレットである。国葬になったのだから、政治家と思ったら大間違い、彼女は性の解放を叫んでみずからも実践した作家であり、踊り子であり、美容家であり、思想家だった。
 彼女は父の仲間と結婚し、その息子と再婚し、彼のガールフレンドと同性婚し、離婚して…数え上げたら
きりのないほどの恋愛遍歴を重ねた美しき才媛だった。
 ジャン・コクトーは甘美なる怪物と評し、彼女の愛を断れる男性も女性もこの世にはいない、とまでいった。
 代表作ジジの映画化にあたっては、ハリウッドの映画スタディオで、オードリー・ヘップバーンを一目見て気に入り、当時全く関心を呼んでいなかった「中性美」を世界の流行のアイコンにしたのもコレットだった。
 幼少期にはショパンの愛人だつたジョルジュ・サンドの著作によみふけり、男装の麗人といわれたサンドの
影響も多大に受けているといわれている。
 パリ・オペラ座からの委嘱を受けて書いた台本に、作曲家ラベルが惚れ込み、生まれたオペラが1925年初演の「子供と魔法」。先年、松本で上演した小澤征爾指揮の「子供と魔法」がグラミー賞で「最優秀録音賞」を受賞して話題になったが、脚本のコレットについてはスルーしていたのが、日本の音楽界だった。
 過ぎる年、石渡潔主宰のキヨシネットワークの創作テーマに「コレット」を提案したことがあったが、テーマ・モデルとしてキャスティングしたアイドルコメットさんの大場久美子のワガママブリが、いまだに記憶の片隅に残っている。無思想な少女に、コレツトのイメージを要求したほうが、間違っていたのだろう。
 近年フランスの女性思想家といえば、サルトルに愛され、サルトルに嫌われたボーボワールのことがとかく話題になるが、このガブリエル・コレットこそが性解放の先駆者だった。
 コレットの墓には、枯れかかった薔薇の花が一輪捧げられていた。
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2016年06月26日

ミスティックの絵と気球船と

ミスティックの絵と気球船と

 パリに三つの丘がある。
 一つは芸術家の丘ともいわれているモンマルトルの丘、二つ目は下町の丘ビュット・ショーモンの丘、
そして三つめの丘が労働者の丘と呼ばれているビュツト・オ・カイユの丘である。
 度々のパリ滞在にもかかわらずビュツト・オ・カイユの丘には足を踏み入れたことがなかった。
 1871年労働者政権パリ・コミューンがヴェルサイユ政府軍と戦った最後の砦だったことから、労働者の丘といわれるようになつた。そこには中世労働者の生活様式が残っているというので、空の重いいまにも雨になりそうな朝出掛けた。
 タクシーで降ろされたのは、1920年代に作られたアールヌーボー様式のプールの前だった。そのプールはいまだに使われていて、夏は行列が絶えない市民プールになっている。
 ビュット・オ・カイユではロード・アートが面白いときいていたので、広場の果物やの親爺にきいたが、そんなもの知らないという。 茫然としてふと斜め前をみたら化粧品やの壁にミスティックの絵があった。ミスティックの切り絵っぽい絵には、洒落たメッセージの言葉遊びがついていてなんとも楽しい。
 通りにそって見ていくと、ミスティックだけではなく何人ものストリート・アートが次々とあり、近頃のアメリカンな悪戯書きとはだいぶ違う町並だった。アパートもオスマンのパリではない、ひとまわり素朴で小さい建物がつづいている。アルザス風あり、ロシア風あり。
 18世紀後半に世界で始めて気球船が作られたのが、この丘だというので、何気ない雑貨やにも夢を乗せた気球船のミニチュアが、売られている。
 何故か心の和むビュット・オ・カイユだった。
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2016年06月25日

ハートとコウノトリのコルマール

ハートとコウノトリのコルマール

 早朝、パリ東駅からTGVでアルザス地方のコルマールを目指した。
 フランスの花咲く町と村のひとつに選ばれているから、まず被写体として間違いないだろう、というはなはだ頼りない選択である。 「小さなヴェニス」と呼ばれているから、水の景色は沢山あるに違いない。
 アルザスの優しい山並みとどこまでも続くポプラ並木に見守られてコルマールについた。コロンバージュと呼ばれる木骨組みの中世の建築物が町の中心を支配している。直角でもなく、平行でもないイレギュラーな木組みと白壁に塗りこめられた街並みはお伽の国のようであった。
 「ハウルの動く城」の舞台としてジブリが此処にこもって仕事をしたというの、素直に頷ける。
 町にはハートとコウノトリがあふれていた。窓という窓にハートがあしらわれていたり、大戸の覗きがハート型だったり、ハートの量は尋常でない。土産物屋の店頭にはコウノトリが赤ん坊を入れたバスケットを運んでくる細工物があふれている。
 イギリス留学時代の浩宮が雅子妃と始めてのデートをコルマールでしたという噂があるが、この町をみて納得した。かっての皇太子が度々口にしていた「…コウノトリの思し召しに」と言っていた謎が解けたような気がした。
 運河巡りの小さな舟にも乗ってみた。のけ反って鼻先をするほどの橋のしたをくぐったり、アルザスのベニスは花と水の都だった。
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2016年06月23日

「深層深入り虎ノ門ニュース」の魔力

「深層深入り虎ノ門ニュース」の魔力

 テレビ朝日に開局から10年奉職し、そのあとも縁はきれずに結局30年近くかかわってきた。
 新聞とテレビと代理店との近親相関、あるいはスポンサーが加わっての四つどもえの裏事情など腐るほどに体験してきたので、一時はまったくテレビをみるという生活からから遠ざかっていた。
 ところが海外にいると、たまに日本のことなど気にかかり、テレビが懐かしくなる。
 パリでも一流ホテルは、日本のテレビ・ネットと契約して番組視聴ができるようになっている。が、プログラムはまずNHKのニュース、大河ドラマ真田丸、それに笑点、新婚さんいらっしゃいと官民混在のくだらない編成が多い。
 今回のアパートには大きなテレビは、三台もあったが日本のチャンネルは入っていない。そこで活躍したのが、KIEちゃんが持ってきてくれたアップルのパソコンだった。
 「深層深入り虎ノ門ニュース」ネットでみるこの番組はとにかく面白かった。
 百田尚樹、須田慎一郎、青山繁晴、井上和彦、武田邦彦、上念司、有本香らの言論人が日替わりで日々のニュースを素材に、虎ノ門の路面スタディオから思いのたけを発言する。
 ガラス窓のそとには通りかかった一般人が立ち止まって聞いている。テレビ東京風のもっと素朴で赤裸々なニュース番組なのだ。東京では毎朝8時から始まり、2時間言いっぱなしの時事放談のようだが、ニコニコ動画をベースに放映されているようだ。なによりも発言者たちが、どこにも遠慮していない。言いたい放題で核心をついている。わけしりで中途半端な司会者がいないのがなによりである。
 予定調和のない「深層深入り虎ノ門ニュース」にすっかりはまってしまった。

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2016年06月22日

ピナ・バウシュ 狂気の天才に出会った

ピナ・バウッシュ 狂気の天才に出会った

 何気なくリボリ通りを歩いていたら、偶然にまったく突然に、ピナ・バウシュの公演ポスターに遭遇した。
 数年前ピナ・バウシュが亡くなってから、ウッパタール舞踊団の舞台はまったく観ていなかった。指導者が偉大すぎると、次の世代に期待するには少しばかりの時間が必要で、とくに後継者の話題にふれないかぎり幻の天才を追ってしばらくは思い出旅行にかまけてしまうのだ。
 ダメモトで劇場までチケットを買いに行ってもらったところ、偶然にもキャンセルに遭遇し入手することができた。パリでもピナ・バウシュはなかなかの人気のようで、ふたつの劇場でふたつの作品を上演していた。
 ピナ・バウシュとの出会いは、30年年ほど前の半蔵門国立劇場だった。
 いつもは歌舞伎をみているこの劇場に入っていくと、すでに緞帳はとび、舞台のうえ一面にカーネーションが咲きほこっていた。以来いくつかの作品をみたが、いつも凡人の想像を超えてすごい表現をみせてくれた。
 プログラムをみると1984年の作品で「山のうえで叫び声が聞こえた」、案の定舞台一面に泥がもちこまれ、いや応なしに生命と大地を体感させられる。そこには単純な観劇ではない五感を圧倒する存在があった。
 舞台一面の土、泥、そこに裸足の男たちが走り込み、一人のスカートの女を引っ張りこむところから作品は始まった。
 演劇とバレエの境界を自由に行き来し、クラシックもモダンダンスもまったく意にかけずに作品は進んでいく。ドイツ表現主義の影響をうけながらも、彼女自身がいっていたタンツ・テアターである。
 コンテンポラリー・ダンスとひとくくりするにはあまりにも奥行があり、演劇人も舞踊家もみなひれ伏してしまうそのドラマツルギーの力に感動させられた夜であった。
 20世紀バレエ団のモーリス・ベジャール、そしてウッパタール舞踊団のピナ・バウシュ、この二人の天才に出会えたことを神に感謝しなければならない。
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2016年06月21日

オンフルールにサティは生きている。

オンフルールにサティは生きている

 今回の撮影行はパリだけでなく、フランスの名勝地にもレンズを向けたいという気分で、まず一番にめざしたのが、セーヌの河口にある小さな港町オンフルールだった。オンフルールは、第二次世界大戦の戦火をかぶっていない貴重な港町だ。
 いちばん奥のヨットハーバーのまわりには、古い木造の教会やらひしめくように建っているレストランや土産物や、その間にワインの酒屋、チーズの店、町役場があり、100年前からまわっている回転木馬などがあって、そのまま映画のセットになりそうな魅力的な港町だ。
 丁度、訪れた日は開港祭の真っただ中、町中がヨットの航行旗に飾られていた。ハーバーのヨットもそれぞれに旗飾りをして、航海にでかけていく。ハーバーの入口には開口式の橋があり、船の出入りの度ごとに橋を上げたり、下げたり、車はじっと20分近く橋の開閉をまつているというのどかな時間がすぎていた。
 町中では道産子のような足の短い馬が、観光客をのせて散策している。
 収穫はエリック・サティの生家、家は彼が生まれ育った当時のままに保存され、サティの音楽観そのままに各部屋は飾られディスプレイされて、実に感動的だった。
 アバンギャルトな創造の部屋、循環するメロディ、環境と音律、作品と白いピアノのサロンでは自動ピアノが
彼の音像をたどり、取り囲んだ数人のファンだけがサティの音楽を浴びることができる。
 作家の仕事場は日本のあちこちにあるが、部屋と机と筆と座布団に手紙や遺筆がかざられてというパターンの
繰り返しで退屈するが、サティのこの小さな家には彼の人生と音楽という過去いがいに、サテイの明日までが
陳列され示唆されて、とても興味の尽きない美術館だった。
 オンフルールではサティを見逃すな、という次第である。
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2016年06月20日

パリの本物の蕎麦や

パリの本物の蕎麦や

 江戸っ子はパリにいても、蕎麦が恋しくなる。
 蕎麦やはいくつかあるのだが、食べてガツカリしたくないので足を向けなかった。
 左岸、サンジェルマンの名物カフェ、レ・ドゥー・マゴとカフェ・ド・フロールの間の路を20メートルも行かないところに蕎麦やがあるのに気がついた。
 夕方、人品卑しからざるフランス人夫婦が並んで店の開くのを待っていた。ひょつとしてこの店は確かかもと思い電話をかける。夜は7時半からなので、あと10分ほどお待ちくださいという。
 メニューをみると日本の蕎麦やと変わらない。入口の傍らでは、蕎麦打ちを見せていた。自信があるに違いない。蕎麦打ちはどちらで修行されたのか、質問すると「山梨」という答えが返ってきた。「ひょつとして山梨の翁ですか」「そうです翁です」ならば信用できる。来月は久しぶりに日本へ行きます。全国翁会に出席のためです、とのこと。
 御代田にある翁を思い出しながら、天ぷらそばを注文し、久しぶりの蕎麦を待った。周りを見まわしても、ワインを楽しみながらのカップルや、スーツ姿の紳士同士など上客が多いし、インテリアもシンプルで小気味いい。
 二階ではパァーティの要望にも応じてくれるという。お運びのスタッフも清潔感のある礼儀正しい若者が揃っていた。
 店の名は「円」という。のちにショップ情報をみたら、セレブの集うお蕎麦やさんとあった。
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2016年06月19日

サン・マルタン運河の3時間

サン・マルタン運河の3時間

 セーヌ川以外パリにはもうひとつの水辺があると知られたのは、戦前1938年、名匠マルセル・カルネの映画「北ホテル」によってだった。
 サンマルタン運河が地上に顔をだしたジュマペ通りには今でも映画のままの北ホテルがある。ホテルの営業は
止めているが、カフェ・レストランとして懐かしの映画ファンを集めている。
 シスレーの絵画にも触発され、半世紀パリに通いながらサンマルタンの運河ツアーはパスして、地上からの景観にレンズを向けてきた。
 今回初めて運河ツアーに乗ろうという事になつた。オルセー美術館前からとバスティーユ下のアルスナル港からの二つのコースがあつたが、バスティーユからの船のほうが素朴でフランス人が多いというのでそちらを選択した。
 出港して直ぐにトンネルに入った。巨大な暗渠は電灯は皆無なのに、光の束が天井からそこここにおちている。地上につながる穴からの光が幻想的な世界を作り出している。
 光の柱が消えた頃、前方に丸いひかりが見えてきた。高低差25メートルの9つある水門の第一の景色だ。水門に舟が入ると退路は遮断され、前方の水門から水が注入されて3メートル近く舟は浮かぶ。そうした昔ながらの運河体験を重ねながら、ラ・ヴィレツトまで3時間のツアーを楽しむ。
 1970年代、高速道路を作るため運河の埋め立てが計画されたが、パリ市民の猛烈な反対にあって中止に
追い込まれた。地上にでた運河の岸ではジョギングする人、体操する人、あるいはシリア難民のテント村、そしてパリに欠かせない恋人たちと、超モダンなラ・ヴィレツト公園までの充実の船旅だった。
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2016年06月18日

オペラからお墓への椿姫

オペラからお墓への椿姫

 パリに実在した高級娼婦の話でありながら、イタリア・オペラ最後の名作といわれているLa Traviata、 椿姫と訳されているのは嘘で、道を踏み外した女というのが正訳とは言い古されてきたこと。モデルとなった実在の高級娼婦アルフォンシーヌ・プレシスにまつわる悲劇の物語にも興味があったが、今回の旅のなかで初めてパリ版のオペラ「椿姫」と対面する機会をえた。
 バスティーユ・オペラ座のあの広い舞台でどんな風に処理されるかと、半信半疑だつたが伝統的なマテリアルを残しながらも、大胆なレイアウトで見事に19世紀初頭のバックグラウンドをみせてくれた。
 高級娼婦というと、日本ではお金次第といったイメージだが、当時のフランス絶対王朝のもとでは貴族たちはクルティザンヌとよばれていた最上の娼婦たちをみな愛妾としてかかえていた。彼女たちはシャンゼリゼーの大通りを金箔に飾られた馬車に乗って晴れやかに走り、夜な夜なパーティを開き、貴族たちはそのパーティに招かれようと競ったと伝えられている。
 ルイ15世の愛妾ポンパドールは、候爵夫人の称号を得て堂々と王宮で振る舞っていたし、その権力は正妻にまさる、とさえ言われていた。そうした貴族たちの美貌と才能にひれ伏した娼婦文化を理解しなければ、このオペラは理解できない。
 先年荒らされていたモンマルトル墓地のアルフォンシーヌ・プレシスの墓を再訪した。
 剥ぎ取られていた彼女の写真はより美しく復活し、ペレゴー伯爵の遺言のごとくに美しい花が手向けられていた。
 大理石の柩も綺麗に洗われて、オペラ「椿姫」の上演を喜んでいるかのようであった。
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2016年06月15日

サンジェルマンの「一風堂」

サンジェルマンの「一風堂」

 サンジェルマンの辺り、シェルシェ・ミディの通りから、グレゴリーを左に曲がるとすぐに行列が見える。
 来々軒、どさん子、ひぐまなどそれぞれに頑張っているパリ・らーめん界のなかでも、いま一番に話題を呼んでいるのは「一風堂」なのだ。
 日の丸に麺かそよぐロゴと、そこに表示されたIPPUDOのしたには、赤い文字でオーセンティック・ラーメンと書かれている。
 30人はかるく収容すると思われる店内は、センスのいい白壁と自然木でさっぱりとしたインテリア。パリ娘のグループ、若いカップル、スーツをしっかりと着込んだ伯父さん三人、表にはひきもきらずラーメン好きの
客が並んでいる。
 一風堂ならではの細い麺がうけているのは、ラーメンにエレガンスを感じているせいでもあろうか。白、赤、黒と三つのグループに分けられたメニューも理解しやすく、となりのカップルはこのあいだは白のなかから
塩とバイオ野菜のラーメンを食べたから、今日は辛い赤のメニューから選ぶわ、となかなかのうん蓄ぶりである。
 サイド・メニューから餃子を選んだが、運ばれてきた餃子をみて驚いた。まるでママゴトの如き小ささだ。
突き出し代わりというか、ワインのおつまみにのつもりか、いずれにしても餃子はもうすこし大きくして欲しい。
 中国人やベトナム人の経営するラーメン屋のまずさに比べれば、問題なく美味なのだが、余りの繁盛ぶりに
ゆっくりと食前酒を楽しむ雰囲気はないのだ。
 いまパリでは、豆腐が話題をよび、弁当が珍しがられて、ベントー・ア・ゴーやらトーフ・レストランが
登場しているが、10年後にどれだけの店が残っているか、いかがわしいひとはた組はさっさと撤退してほしい。
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2016年06月14日

クレージーホース、極上のエロティシズム

クレージーホース、極上のエロティシズム

 キスマークのカードが飛んできた。
 ステージからこちらを見て投げキッス、真っ赤なクチビル型のカードにはNahiaとある。
Nahia Vigorosa スペインからやってきたグリーンの瞳にチェスナット・ブラウンの髪の女の子である。
 やはりクレージーホースは世界一のナイトクラブ、シャンゼリゼーのリドも、モンマルトルのムーランルージュもかなわない。
 僅か十数人の踊り子が、2時間全16景のショーを、飽きさせることなく、次々と展開しショーアップして見事だ。かって装置や道具にこったこともあったが、2016に至って完全に女性の美しさとダンサブルな魅力に的をしぼった。女性の肉体の美しさを、フリーズして、アクションして、ダンス・ムーブメントで、さらに演劇的なアクションで120%発揮する。
 カラダのうつくしさは、このうえない。全裸であっても猥褻感がまったくない。女性の内側からにじみでる美意識に下品な意識がないためだろうか。
 ラスベガスにもクレージーホースはあるが、アメリカ娘の寒々しさがでて、とても鑑賞にたえない。ズウタイが大きいだけで肉体にデリカシーがないのがアメリカ娘だ。
 ここパリ・ジョルジュ・サンク12番地のクレージーホースは躍動的で、ヌードなのに禁欲的で奔放で、そのうえエロディシズムにあふれている。
 同行したアラサーの女性は熱狂して、この舞台に魅了されない男はいないし、同性としても誇らしいショウだと興奮していた。
posted by Kazuhiko Hoshino at 11:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

雨のパリから帰国して…

雨のパリから帰国して…

  一ヶ月余りのパリ撮影行から、帰軽しました。
今回は望遠レンズ、標準レンズ、広角レンズを携えての撮影行だったので、充実した成果を得ることができた。助手を務めてくれたパリ女性劇団セラフの川岸紀恵さんに感謝。また2018年度パリ展に向けて、酒井会后子さん、横山純子さんらにもいろいろと世話になった。
  事務所の高橋亜矢子さんが苦労して作ってくれた旅行日程もほぼ100%に近くこなすことができた。
セーヌ川河口にあるオンフルール行も、アルザスのコルマール行も、さらにエッフェル塔のディレクターから示唆されたノルマンディのヴール・レ・ローズも無事撮影することができた。
予想外だったのが、最後の一週間に遭遇したセーヌ河の洪水だった。何事もないように静かに流れているセーヌの水位がいつの間にか6メートル以上も上がり、ルーブルもオルセーもみな閉鎖してしまったことだ。
  セーヌに浮かぶバトー・ムーシユも観光船もすべて橋のしたを航行することができず橋と橋のあいだに雪隠攻めの呈よろしく、動けなくなってしまった。世界中から来ている観光客も途方にくれて、呆然とセーヌの流れをみているばかりだった。サンマルタンの運河ツアーは、初めのころすましていたので被害をまぬかれた。
  雨のため唯一撮影不能だったのは、ペール・ラシェーズのお墓の撮影、ショパンもピアフもオスカー・ワイルドも無事に洪水の被害をま脱がれたかどうか、ちょっぴり心配ではある。
  雨の初日にヴール・レ・ローズに行くために、サンラザール駅に向かった。そこに待ち構えていたのが水の流れる大理石のフロア、見事に足を取られ右足の半月板を傷つけてしまった。インテバンとサポーターで、ごまかしながらその後の撮影はすましたが、帰国次第早速に中軽井沢の大窪先生に通っている。
  とりあえずのご無沙汰、お詫びかたがたの帰軽報告である。
posted by Kazuhiko Hoshino at 11:21| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする