2016年07月31日

中村紘子さんを偲ぶ

中村紘子さんを偲ぶ

 中村紘子さんが亡くなった。国際的ないくつかのピアノ・コンクールの審査員を務め、この国のピアノ演奏を国際的なポジションに引き上げた功労者である。
 が、彼女の演奏にいつもつきまとったのは、「テクニックはあるが物語はない」という評価だった。
 彼女を悩ましていたのは「人より小さい手」ピアニストとして致命傷ともいえる身体的特徴だった。そのため彼女は猛烈なレッスンをつづけ、手のちいささを補うテクニックを身につけた。演奏時につきまとう劣等感が必要以上のテクニック偏重となり、解釈をこえていたともいえる。
 彼女のデビュー前後、母であった中村曜子は、銀座の画材商月光荘社長として芸術関係のマドンナだった。
母の主宰するサロン・ド・クレールには、財界から政界、、美術、文化をを網羅した人々が集まっていた。
 そのマドンナに天才少女がいるというので、話題となったのが中村紘子だった。
 始めて彼女にあったのは、原宿のとある喫茶店だつた。
 「ピアノの前に座ってしまえば、心は落ち着くのだけれど、ステージの袖からピアノまでの距離、わずかの時間がとてもつらい。どうしたらいいかしら。」という相談だつた。どう答えたか忘れてしまったが、演劇的な脱力法やら、目線の処理、注意の対象を観客から外したらいい、というようなことを言ったような気がしている。
 当時NHK交響楽団初めてのワールド・ツアーに、ソリストに選ばれた彼女はピカピカに輝いていたし、可愛く魅力的な女性だった。母中村曜子の娘でありながら、妹となっていた母の血を多分に受け継ぎ、多感で情熱的な部分もあった。
 ワールド・ツアーで指揮者の岩城宏之と外山雄三の部屋に夜な夜なかよい、師であった井口愛子から破門されたのも、彼女の青春にとって勲章だつたのかもしれない。
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2016年07月30日

「テレビに出ている人」に対する信仰について

「テレビに出ている人」に対する信仰について

 「テレビに出ている人」と「テレビを作っている人」。
この場合の「出ている人」というのは、俳優であったり、お笑いであったり、アナウンサーであったりする。
いまをときめく女子アナや、情報番組の司会者たちも含まれる。
 「作っている人」は、テレビの装置を製作している人々ではなく、番組そのものを制作している人々、つまり
番組のプランナー、プロデューサー、ディレクターをさしている。
 さて視聴者の9割の人々は、「テレビに出ている人」は優れている、優秀な人々と思い込んでいる。
 困ったことだが、そういう風に思い込んでる人たちが多いのだから、世間は当然のごとくそちらに引っ張り込まれる。
 新聞からテレビに場を移して、顔を売ってきた人が、突然後出しジャンケンで立候補するなど、そのいい例だ。県であれ、国であれ、都であれ、この手の人は次々と登場する。更に始末の悪いのは、そこに乗る政党人や左翼進歩人がいることだ。
 柄もいいし、弁舌爽やかなので、本質に眼がととどかない。簡単に騙される。我慢の限界をこえた文春、新潮あたりが、影にかくれたセクハラ疑惑を告発するといった寸法である。田中ナニガシ、猪瀬ナニガシ、舛添ナニガシ、鳥越ナニガシ、みんなその類いだ。
 さらに、田舎にくると「NHKにでていた女子アナは優れた人」という価値観が横行する。
 原稿を書いているのは「テレビを作る人々」で、アナウンサーはしゃべる機械にすぎない。ただ稀に有働アナのごとく基本的教養としゃべる技術のバランスに優れた女子アナもいるが、近頃民放の女子アナなどまず欠陥車と思えば間違いない。
 長い間「テレビを作る側」にいたので、その辺の実態については充分に判っている。
 それにしても「テレビに出ている人」にたいする信仰から、いつになったら日本人は醒めるのだろうか。

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2016年07月29日

マッサンの思いが生きている余市の蒸留所

マッサンの思いが生きている余市の蒸留所

 マッサンとリタの物語をNHKが放映していた先年、小樽から余市への一本道は一日中混んでいてどうにもなりません、ということで、余市のニッカ蒸留所行は断念した。
 があれから3年、もうそろそろ落ち着いた頃と、余市へ行ってみようということになった。
 北の荒海と山にはさまれた40年前の余市の印象とはまったく変わっていた。多分にこちらの眼が変わったのだとおもうが、余市は僻地とも思えず小樽のとなりの町だった。かって海沿いの道をたどっていくと、忽然と姿を表したスコットランド風なニッカ蒸留所に感激し、ここは外国かと舞い上がって、カメラを回した昔はなんだったんだろう。
 でもニツカ蒸留所のゆったりとした空間は、竹鶴政孝がかの地で学んだ理想郷にちがいない。工場と貯蔵庫群に挟まれた、マッサンとリタの暮らした簡素な洋館には、ウィスキーづくりのなかにあった僅かばかりの暮らしが読み取れた。遠い国から嫁いできたリタに少しでも、仕事は家庭に持ち込まないで、という意識があったらここでの生活は成り立たなかっただろうし、日本の誇る余市生まれのシングルモルトは生まれなかったに違いない。
 蒸留器のまえで、金髪ビックリメダマの少女達が、Vサインで写メしていたが、この娘たちの網膜には何が映っていたのだろう。
 広い余市の蒸留所には、人が生きて、人が努力した、志がいっぱいに溢れていた。貯蔵庫の並ぶ小道を歩きながら、北海道大学のキャンパスに流れる空気と同じ爽やかさを感じた。クラーク博士は此処にもいた。
 美瑛の広大な花畑にしろ、北海道には自然と戦いながら築いてきたロマンあふれる人間の仕事がそこここにある。
 僅かばかりのスペースがあれば、ご当地ビールでもウイスキーでも、簡単に作ってしまう、こんにちただ今の
状況が現実かもしれないが、人間が考え努力してきた開拓期の素朴な志に触れると、合理性だけを追いかける
アメリカンな利益資本主義には絶望する。
 ロウソク岩の夕景はあきらめ、小樽に戻り運河を眺めながら名物のちらしを食べて帰途についた。


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2016年07月28日

札幌のふたりの友人

札幌のふたりの友人

 「健康を取り戻すまで、飛行機に乗せてはいけません。」
 人間の話ではない。愛犬のはなしである。
 という訳でMIKAちゃんは、もう一年以上東京に戻ってこない。
 生まれ育った札幌に別宅があるために、三匹のペットとMIKAちゃんは札幌にいる。
 愛するご主人が週一ぐらいのペースで、札幌まで通ってくるらしい。
 ご主人の仕事の本拠地は青山だから、東京から離れるのは、 お仕事で日本中を飛び回るときと、
 札幌にみまかるとき。
          光源氏のようなシアワセな男性である。
 さて彼女の札幌に於ける生活のスケジュールは知る由もないが、筆者がたまたま北海道に撮影でいくと
 ガイドを務めてくれる。 大変にありがたい存在なのだ。それに内装は白く、ボディ・カラーはディープ
 グリーンのメルセデス・ベンツ がついてくる。
 富良野、美瑛では美瑛ハイヤーに世話になったが、札幌ではプライベート・ベンツである。
 シアワセな気分で撮影行ができる。

 札幌に於けるもう一人の友人は北海道大学の鈴木幸人准教授だ。
 初めての出会いは、嵐山吉兆の広間だった。
 初釜の席で鈴木先生は見事に歌舞伎18番の名場面を演じられた。
 当時は大阪美術館で仕事をしていられ、初のフェルメール日本展の開催に奔走されていた。
 関西のエネルギーに江戸っ子が混じったような、なかなか粋な面白い先生だった。
 札幌では、その鈴木先生と再会し、ゼミに集まっている生徒さんと団欒するのが楽しみだ。
 去る年に大いに座を沸かしてくれた青森県代表の少女は、大阪大学へいっているということだった。
 今年は上田生まれ佐久のガンコウから北大にきた学生さんを帯同してくださった。
 なかなかのイケメンで長野の田舎出身とも思えず、同席したMIKAちゃんが興味をしめしていた。
 一遍上人が佐久の跡部で啓示を受け、初めて欣喜雀躍した念仏おどり、歌舞伎起源のことなど、
 多弁を弄したが、はたして彼の記憶に入り込めたかどうか、はなはだ疑問である。

 MIKAちゃんは、秋の銀座展を手伝ってくれるといっているが、まず愛犬の健康第一、
 どうなることやら、と心配し期待している。
 
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2016年07月27日

一本の木と丘だけで1000万人の人々が訪れる美瑛

一本の木と丘だけで1000万人の人々が訪れる美瑛

北海道・美瑛の町の観光ポイント
パッチワークの丘
北瑛小麦の丘
ぜるぶの丘
亜斗夢の丘
美瑛ポテトの丘
北西の丘
マイルドセブンの丘
赤麦の丘
オルテの丘
新栄の丘
三愛の丘
四季彩の丘
千代田の丘

美瑛は丘の町です。丘は私有地です。広大な丘は農家の生産と生活の場です。新鮮な農産物の宝庫です。
畑の中に入らないでください。皆さまの協力をお願いします。
セブンスターの木
親子の木
ケンとメリーの木
パフィーの木
クリスマスツリーの木
いっぽんの木
……撮影ポイントはここです。
自然は美瑛の宝物です。自然を愛して美瑛を愛してください。
ここに登場するのは丘と木だけ。これこそが最大の観光資源。
そして花はラベンダー、コスモス、ひまわり、キガラシ、かたくり、そしてじゃがいもの花等々。
どこかの町のように一生懸命ハコモノやら、アウトレットに頼ることなく、丘と木だけで
年間1000万人の世界の人々がやってくる。
           軽井沢にとって、美瑛の町はお手本の町なのだ。。

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2016年07月26日

花の美瑛・富良野と中国人

花の美瑛・富良野と中国人

 花の美瑛、富良野に行ってきた。北海道の大地に育った干草のロールをイメージしていったのだが、干草ロールはみな白や黒のビニールに包まれ農場の片隅に積み上げられ、草原に点在する干草のロールはなくなっていた。干草達は発酵の段階に入ってしまっていた。
 花は最盛期だった。というより花と中国人が最盛期だった。空港から美瑛ハイヤーで回ったのだが、どこへ行っても、ゆったりと花畑を見ながら走る高級レンタカーに悩まされた。
 夏の軽井沢では、ママの運転するベンツを避けて走るのだが、そのママベンツを上回る傍若無人ぶり、速度を初め、交通法規をまったく知らない中国ママが、なんのためらいもなく高級レンタカーで堂々と走るのだ。
 赤信号で立ち止まっているハイヤーの横を、悠遊と抜き去っていく。信号は赤、プロの運転手がハラハラして、アッ、アブナイ! と言葉を発するほどだ。中国の観光客にレンタカーを貸しては危ない。走る凶器そのものだ。あの中国ママに比べたら、ポケモンGOなど可愛いものだ。
 若者たちは、レンタサイクルだ。初めての電動機付き自転車なのか、恋人同士これまた傍若無人に走り回っている。日本人は遠慮して道を譲る。まさに中国の北海道だった。
 彼らが知る筈もないケンとメリーの木の前や、セブンスターの木のまえで、自撮棒が活躍し、四季彩の丘のノロッコも中国語があふれていた。花畑の真ん中では、純白のウェディング・ドレスとタキシードのカップルがポーズを決めている。大陸からの結婚式用前撮りである。
 こんなに大勢の客がきても美瑛、富良野の農場はみな入場料無料という点が、アッパレだ。1000円、1500円でも通用するが、どこの農場も入場無料にして、関連事業で経費を捻出している。
 ナンバーワンはやはり富良野ファーム富田の彩りの畑。ご存じカスミソウの白を中心に、赤いポピー、ピンクのコマチソウ、ラベンダーの紫などが、ダイナミックな花の帯を創りだして見事だった。早朝農場のスタッフがまだ出勤していないにもかかわらず、花人の畑には中国人が溢れて大撮影会の様相を呈していたのには、いささか感動もした。花のもつ力の大きさに圧倒された。
 戦後ハコモノひとつ作らずに、花と木だけで町ずくりをしてきた努力が、見事に実を結んで北海道屈指の観光地に育った。
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2016年07月25日

TVを堕落させた大橋巨泉

TVを堕落させた大橋巨泉

 大橋巨泉さんが去る12日に亡くなった。テレビや新聞紙上で、現代を象徴する偉大な巨人を失ったと報じられている。確かに偉大なタレントであったには違いない。筆者も随分巨泉には世話になった。ただし日常ではなく、仕事上でのこと、舞台での司会にまま彼に出演してもらった。音楽評論家であったことから、全体のテンポやリズムをつかむ才能には長けていた。
 ただテレビに於ける彼の仕事には、疑問をもっていた。
 今日の堕落したテレビの遠因に於いて、かなりの部分巨泉と当時の日本テレビに責任がある。
 巨泉は11PM 司会となるや当時の日本テレビの制作体制の虚をついて、それまで表現メディアとしてあったテレビの知性、テレビの文化性をつぎつぎと破壊していった。このことは、彼が取り上げたテレビの素材を見ればよく判る。
 それまで決して表には出てこなかった「いかがわしい占い」の数々、その占いの暗示する競馬、競輪によるギャンブル、釣り情報、麻雀とそのテクニック、ゴルフ、セツクス、アンダーグラウンドにある様々を臆面もなく11PMに登場させた。
 面白かったかもしれないが、それによつて日本のテレビは、坂道を転がるように堕落していった。
映画であれ、ドラマであれ、音楽であれ、色物であれ、報道であれ、それまで持っていた表現メディアとしてのモラルが音をたててくずれていつた。
 彼が司会をしていた「世界まるごとHOWマッチ」など、金銭本位の物質主義、バブルの先頭に立っていた。
 巨泉のそうした利益主義は、日本人のいく世界中の観光地に「巨泉の店・OKショツプ」なる怪しげな土産物屋をいくつも作り、テレビで売り込んだ巨泉の名前で商売をしたさもしさに現れている。
 OKショップには、ヌードの浮き出るボールペンから毛皮のコートまで売っていた。言葉の不自由な日本のおばさん達は絶好のカモになっていた。そうした巨泉の店では、かって11PMで働いていたスタッフが、引き抜かれて働いていた。
 大橋巨泉はマフィアの如き、テレビ商人だったのだ。
 今日のテレビの惨状を見るにつけ、巨泉の名前を思い出さずにはいられない。
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2016年07月19日

佐々木忠次というバレエ・プロデューサー

佐々木忠次というバレエ・プロデューサー

 いつも爪を噛みながら、怒っていた。
 ある時はお役所だったり、日本のバレエ界だったり、爪を噛みながら怒っているのが、彼のスタイルだった。
 佐々木さんとの出会いは、慶応の劇研の仲間を中心に劇団山王が結成され、旗揚げ公演に石原慎太郎作品を上演するに当たって、演出に引っ張りだされたのが、きっかけだつた。当時彗星のごとく登場した妹尾河童氏に舞台美術を依頼しにいったところ、イタリア・オペラの戦後初の日本公演のために集まっていたスタッフ・クラブに連れていかれた。
 そこには岩城宏之(指揮)、栗山昌義(演出)、妹尾河童(美術)、石井尚郎(照明)、緒方規矩子(衣装)そして舞台監督の佐々木忠次さん等が集まっていた。そこは当時の日本のオペラ界をコントロールする梁山泊のごとき状況で、藤原歌劇団やら二期会あるいはミラノ、ウイーンのオペラについて、日夜口角泡を飛ばして論じあっていた。いつしかその渦に引っ張り込まれ、筆者も二期会やら、ギリシャ王室オペラにまでかかわることになった。
 佐々木さんは、日本のオペラ歌手の衣装やアクセサリーに対する無神経さに我慢ならずいつも怒っていた。欧米のプリマは自分のレパートリーの衣装は自前で持つのが当たり前、日本のプリマたちの東京衣装まかせは何事だと怒っていた。
 アクセサリー箪笥をいくつも特注し、ヨーロツパで買い集めたり、マリア・カラスの写真をもとにアクセサリーデザイナーに創らせたり、オペラへの情熱は半端なかった。オペラ制作で東奔西走しつつも、そのストレスのたまりようは大変だったと想像できる。
 そこに、バレエ・マネージメントの京田進さんからもちこまれたのが、東京バレエ団経営の話だった。彼はオペラからバレエへと矛先をかえ、舞台監督からプロデューサーへと変身した。
 いまではすっかり色あせてしまったヴォリショイ・バレエの招聘と、東京バレエ団のプロ化をめざした。プリマ、マヤプリセツカヤを呼び、東京バレエ団のロシア公演を成功させた。
 「チャコフスキー記念東京バレエ団」の誕生だった。
 舞台芸術振興会による招聘事業と、東京バレエ団のプロ化、国際化を着々と進めた。日本の民間バレエ団にして、初めて給料の払えるバレエ団を確立した。
 パリでも、ミラノでも東京バレエ団だけが、日本のバレエ団として認知されるようになった。
 さらに見落とすことができないのは、モーリス・ベジャールとの出会いだった。20世紀のもっとも偉大にして革新的な才能をもつたベジャールと東京のバレエ・プロデューサー佐々木忠次の間には尋常ならざる絆ができ、20世紀バレエ団と東京バレエ団は作品を通じ、切っても切れない仲となった。
 小牧バレエ団も貝谷バレエ団も牧阿佐美バレエ団も成しえなかったプロフェッショナルなバレエ集団をつくりあげた。
 ゲイとか、バイとかの噂をこえて戦後の貧しかった日本のバレエを、本当の意味でインターナショナルに育てたのは、佐々木忠次さんの意地と美意識だった。いつも一人で大きなトランクを引きずりながら、パリやローマの空港を速足で歩いていた彼の姿が走馬灯のごとく眼に浮かぶ。  合掌
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2016年07月17日

カラ念仏の野党大連合

カラ念仏の野党大連合

 ようやく騒々しい参議院選挙が終わった。
 共産党まで加わっての野党大合同はなぜ負けたのか、当事者たちはどうも判っていないような気がする。
 自民党のアベノミクス一辺倒、経済は確実に良くなりつつある、という主張に対し、荒唐無稽な憲法を守れ、安保法案破棄、戦争反対ではあまりにリアリティが無さすぎる。いい勝負になる筈だった選挙をみずからぶち壊したのは、民進党以下の自称革新勢力ではなかったか。 チェックする、チェックする、安保法案反対だけでは、それならばと政治を托そうというという気にならない。
 南沙諸島を軍事要塞化し、尖閣をとりまく岩礁群を着々と軍事化し、尖閣接続水域にフリゲート艦まで連日出してくる巨大な中国拡大主義にたいしての対案がまつたくない。息をひそめてじっとしていれば、中国が引き下がると思っているその脳味噌が信じられない。
 国を守る、国民を守らなければ大変なことになる、という危機感がまつたくないのが、革新陣営の人々だった。戦争反対あたり前のこと、我々はB-29 の爆弾の下をくぐり、艦載機の銃撃に追い回され、食べるものも無く生きてきた、誰よりも戦争反対なのだ。
 が隣国は違う、ミサイルを装備し、千年前の歴史を引っ張り出して領土論をふりかざすナラズモノ国家なのだ。いつ何時侵略の手が襲ってくるかわからない。
 憲法9条があれば、尖閣は安全なのか。憲法9条があっても竹島は獲られたではないか。左翼のとなえる
憲法論はあまりに現実性がなく、ご利益のない念仏のようなものだ。宗教ならば念仏は心にとどくが、国際情勢に念仏はまつたく無力なのだ。
 国防に対してこれ程無関心で、具体案のない政党は世界中さがしても見当たらない。シールズとかいう知的レベルの低い学生たちとパフォーマンスを繰り広げても大衆はついてこない、という現実に目覚めるべきだ。
 安保法案を戦争法案と言い換えて大衆に訴えるなど、人びとの知性を馬鹿にした手品師のようなものだ。
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2016年07月16日

「英国人の散歩道」はヌーディストの浜

「英国人の散歩道」はヌーディストの浜

 ニースのプロムナード・デ・サングレ、通称「英国人の散歩道」なかには「女王殿下の散歩道」と呼ぶ人もいる、この道は砂浜から4.5メートル石垣を積んだ上を走っているので、道を歩く人から死角になっているすぐ下のスペースはヌーディストが、生まれたままの姿で昼寝していたり、本を読んだり、日光浴をしている。その上の道で惨劇が起こった。84人が死亡、150人余りが傷を負ったとある。
 隣のカンヌと違って普段ニースは静かなリゾートである。筆者がニースの劇場でKIMONOショーを演出してから30年が経つ。アフター・パーティーは「英国人の散歩道」の中程にある伝統的ホテル・ネグレスコだった。
そこのクラシツクなホールで、ニース市長をはじめコート・ダジュールのセレブなマダムや文化人たちの歓待をうけた。このあたりは普段はそうしたクラスの人しか歩いていない。市民が山から降りてくる革命記念日の花火の混雑を狙うなど、犯人はこの地を知り尽くした狂信者ではなかろうか。
 ニースは観光地というよりは保養地であつて、見るべきものも、海岸線を見下ろすキャッスル・ヒル、旧市街、英国人の散歩道、そしてシャガールの美術館ぐらいしかない。
 このあたりには昔から英国貴族の別荘が多かった。友人の英国貴族もニースを一望するシャトーを保有していた。シャトーのエントランスは、ピカソにオーダーして作らせた陶板が、何十枚も床を彩っていた。世界一美しいといわれたロスチャイルド家の別荘はうすいピンクの大理石で作られた瀟洒なベルエポック風だった。
 ロスチャイルド夫人は、コートダジュールでいちばんケチなマダムと噂されていたが、そのケチな大富豪から
もらつた金のネックレスがこれなのよ、とはしゃいでいた友人が懐かしい。
 それにしてもこの世界的なテロ騒ぎ、いつになったら収まるのだろうか。列強の政治家たちにその能力がなければ、あと頼れるのはローマ法王しかいない。

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2016年07月15日

ファッションを棄てたパリジェンヌ

ファッションを棄てたパリジェンヌ ファッションを棄てたパリジェンヌ

 30年前に熱くファッションを語った友が、何も言わず庭の花のはなしをしている。
 ファッション誌の取材記者をしていた彼女にとって、ファッションは宗教だった。ディオールがこんなシルエットを発表したわ。シャネルは相変わらずね。マーク・ジェイコブスって凄い才能だと思うわ。あの頃は、ファッション・ビジネスの資本構造にはまつたく興味がなく、末端のデザインに興奮し燃えていたんだろう、ということが容易に想像できる。
 メゾンの空気は、京都の老舗のような家業の雰囲気に充ちていた。歴史とともに磨かれる神秘性のうえにクチュール・メゾンはどっしりと胡坐をかいていたともいえる。だからファッションは、フランスを代表するイメージとして国の援助のもとにぬくぬくとビジネスをし、そこに関わっている人々はある種エリートとして、表通りを闊歩していた。
 ところが今表通りにあるのは、ZARAザラであり、H&Mエイチ・アンド・エムであり、ユニクロになってしまった。
 1984年に土建屋のベルナール・アルノーが、伝統あるディオールを買い取ったところから、全く様相が変わってしまったのだ。アルノーは、ルイ・ビィトン、ロェベ、セリーヌ、ジバンシー、ヘンディ、ダナ・キャラン、エミリオ・プッチ、そしてディオールから、時計、宝石、香水、コスメ、はてはモエ・シャンドンからドン・ペリニヨンまで手中に収め、ユダヤによる一大ラグジュアリー・コングロマリットを作りだした。
 かくてファッション界は、ラグジュアリー贅沢ブランドと、ストリート系貧乏ファッションに集約され、志をもった中級ファッションの住む場所はなくなったのだ。
 彼女はいまヴァルビゾンの森で静かに暮らしている。
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2016年07月14日

無駄だった大理石のアパルトマン

無駄だった大理石のアパルトマン 無駄だった大理石のアパルトマン 無駄だった大理石のアパルトマン 無駄だった大理石のアパルトマン

 5月のパリ行は旧年11月に決まった。そこで先ずチェックしたのは、ホテルのこと。オナジミや、心当たりを数件あたった。どういうことか、上旬と下旬は部屋はとれるのだが、中旬が全くとれない。大きな国際会議でもあるのだろうか。途中で荷物を持ってウロウロするのはいやなので、それではと初めてのアパルトマン暮らしをしようといことになった。
 パリの不動産屋に連絡したところ、オウム返しにいくつかの物件が送られてきた。
条件をつけた。 @部屋は2ベットルーム+それぞれのバス+化粧室+サロン+ダイニング  Aエレベーター付き B洗濯乾燥機 C冷蔵庫 Dテレビ E電子レンジ F給湯器は無制限に使えること… G場所は1区オペラからルーブル界隈 Hメトロの駅近く、タクシー・ステーションにも近いこと
この条件で探してもらったところ、それらしき物件の図面が送られてきた。がもうクリスマスで、オーナーがいなくなるので年が明けてからの交渉になる、ということで正月あけまで、フリーズしてしまった。

 予算のこと @申込金 A家賃 B保険料 C保証金 D清掃費  ホテルなら一泊いくら×滞在日数ですむのだが、一ヶ月ちょっとのアパルトマンに随分と手間とお金がかかった。最後までもめたのは、保証預り金だった。送金をして後で差額を送り返してくれるというのだが、フランス人のペースでは忘れたころに見当違いのところに送られてきたりする。退去するときに現金で清算してほしいと、いった処、なかなか結論がでず、いらいらした。
 やっとのことでアパートも決まり、当日を迎えた。
 まず路に面した大きい扉を開けるのに、暗証番号を入力しなければならない。ビルにはいり、ロビーからエレベーター・ホールに入るのに再び第二の暗証番号を入力する。エレベーターで5階に上がる。右側のどん付きに赤い扉がある。そこで鍵をだして、ようやく我らがアパートについた。暗証番号の多いのはウンザリする。
 サロンには、カンデンスキーの絵が何枚も飾られ、60インチのテレビとオルセンのアンプ、部屋の一隅にはバー・カウンター、大きな皮のソファがデンと鎮座ましましていた。片隅の螺旋階段を上ると豪奢なダブルベットと、映画プリティ・ウーマンに登場したと同じ丸いジェット・バス、泡だらけのバスタブから片足を出してウインクする、あれである。折角の装置だったが、同行した助手はまったくイロケがなく、プリティ・ウーマンはマボロシであった。その向こうには化粧台と洗面台もある。
 サロンから三段降りて奥はダイニングだ。やたらに大きい冷蔵庫、電気コンロ、コンフェクション、食器棚、シンク、そして乾燥洗濯機が組み込まれている。中央には6人はたっぷりと掛けられる楕円テーブルが置かれ、片方の壁には200号はあろうかと思われる抽象画がかかっている。モダンな照明が暗い。
 そしてその奥が筆者の部屋、片方は総カガミで四つの洋服タンスと、金庫の入った引き出しにわかれていた。反対側にはダブルベット、そしてバスルームと化粧室がついていて、全てをみおろしているのが、アンディ・ウォホールのマリリンモンロウだった。そしてさらに屋上ガーデンがある。
 ふと足元をみたら、すべて大理石、木の生活に慣れた足に大理石を歩かせるのは、落ち着かないことこの上ない、不感症なパリ生活だった。
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2016年07月13日

ラウンド・アバウトと政治家のモラル

ラウンド・アバウトと政治家のモラル

 フランスには、20000か所のラウンド・アバウトがあるそうだ。毎年600か所ずつ増えている。
 引き比べ長野では飯田市東和町にひとつ、軽井沢にひとつ、まあ申し訳程度の試みが実態である。
 ラウンドアバウトには信号はない。まんなかの中央島さえあれば、三本以上の道路を接続するには大変に
好都合な交通システムである。
 凱旋門を中心にしたパリのシャルル・ド・ゴール広場は、13本の道路をつなぐラウンド・アバウトになっている。シャンゼリゼーの終わりにあるロンポアンも七本の道路を結んだラウンド・アバウトだ。
 大量の自動車交通量に対し、ひとつの信号もなしに捌いているのだから、こんなに楽で経済的な交通システムはない。
 今回の撮影行ではノルマンディをあちこちと走ったが、ヴェール・レ・ローズなど、信号は全くみあたらず
遭遇するのはすべてラウンド・アバウト、いつたいこの村にはいくつのラウンド・アバウトがあるのかと思った。
 ひとつの交差点に交わる道路に自動車、人間それぞれの倍の信号を設置し、そのメンテナンスをし続けるのは、よほどお金持ちの自治体か、信号業者のたくらみではないか、と言われてもあながちウソではない。
 ラウンド・アバウトの中央島には、その土地の恩人や、著名な出身者の銅像、あるいは素敵な御花畑、あるところではラウンド・アバウト発明の父ハネペンを持ったロンサールの大きな手が飾られていた。
 彼等は高速道路の照明灯も止めてしまった。インターのまわりだけ遠くからでも認識しやすいように照明がついている。あとはご自分の車にライトが付いているのだから、どうぞご自分の照明で走ってくれ、という訳だ。
 国家予算にとっての、消費電力経費はものすごく節約されたと、きいた。

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2016年07月12日

パッサージュの裏表

パッサージュの裏表

 薄暗いパッサージュを歩いていると、ガラス越しに突然魔女が顔をだす。蝋人形館のアピールだが、あまりいい気分はしない。
 バッサージュというのは簡単にいえば、18世紀のアーケード街、多くは貴族の館のそばに作られ、貴族の御用商人が集まっていたそうだが、いまでは貴族もいなくなり、商人たちもあちこちに散って、かっての雰囲気を維持しているパッサージュはいくつもない。
 蝋人形館のあるこのパッサージュ・ジュフロワには、ホテル・ショパンと称するクラシック・マニュアにはこたえられない安ホテルもある。角を曲がれば、凝った木製玩具の店などもある。
 オスマンの大通りを渡ると、パッサージュ・デ・パノラマがある。入り口左には蒸気機関車の始まりを再現した汽車レストランがある。雰囲気は120パーセント汽車の旅だが、とにかく狭い。狭い車内で往年の汽車の旅を体験しながらの食事もまた乙なもの。切手趣味のひとには貴重な故買屋もある。
 近所のパサージュ・ヴェルドーには古本屋が集まっている。むかしの羊皮本から前世期のセックス本までなんでもある。手に入れたい本を探すには人の好さそうな本屋の親父を見つけることだ。神経質に監視していて、すぐに触るなという怖い本屋から、一緒になってページをめくってくれる親切な本屋までいろいろだ。気にいられるとお茶まで出してくれてなかなかに逃げ出せない。
 もっとも美しいパッサージュは、ギャルリー・ヴィヴィエンヌといわれている。人気のサロン・ド・テ「ア・プリオリ・テ」でデートするもよし、ランチもなかなかに美味い。奥にはワインの専門店、食器の専門店と女性の好きなハイセンスな店が揃っている。
 パッサージュのなかには、娼婦の巣のようなセクシーなところもあり、慾求不満の若者や女房に逃げられた叔父さんが病気覚悟で通う。
 パッサージュの優雅なガラス屋根のしたには、人間の裏表が揃っている。雨の日のパッサージュ巡りはとても楽しい。パリ右岸には20以上のパッサージュがある。
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2016年07月11日

女を創る赤いルブタンの靴

女を創る赤いルブタンの靴

 メディアで働く友人は、靴は5足しかもっていない、と豪語している。あとはスニーカーだけよ。
 別に彼女の靴が5足だろうが、10足だろうが、どうぞご勝手になのだが、ある時うちによってけ、というので彼女のアパルトマンに立ち寄った。
 黒い大きなドアを入ると、右側の絨毯ぎわになにげに靴が並んでいる。見てと促され目線をやると、黒いシンプルなパンプス、トゲトゲのついたフラットシューズ、赤いハートのついた黒のピンヒール、そしてもう一足は一見ヒールがガラすのように見えるパァーティ・シューズ、そしてあとの一足は彼女の足にある。
 アクセサリーはいらないけど、靴は命だという。その命はたった五足。
 それらの靴底はみな赤に染められていた。靴底はいちいち他人に見せるわけでもなし、自己満足のなにものでもない。底の赤い靴をはくと気分が高揚してシアワセになるのよ、と彼女はいう。しかし、深紅に染められた靴底のルブタンは、そんなに楽に履けそうもなく見えた。そこが良いんだと彼女は云う。
 考えてみると、きものの不自由さにも通じるのか、帯を身に付けた時のしゃっきりとした不自由さが適度の緊張をもたらして心地いいと、きいたことがある。
 ジェニファー・ロベス、ビョンセ、アンジェリーナ・ジョリー、ミランダ・カー、ジェシカ・アルバなど名だたるスターやセレブたちに愛されるルブタンの靴には、女性の心に自信を生み出す魔法が隠されているのかもしれない。
 10着の服と5足の靴をもち、いつも薄化粧の彼女は、下着はすべて通販でまにあわせているという。二ヶ月ごとに、日常用二点、旅行用一点、アバンチュール用一点の四点の下着が届けられるそうだ。
 いまは愛人が一人とセックス・フレンド一人がいるという彼女だが、別れしなに説明してくれた、なぜこのアパルトマンに住んでいるのか。 傷んだルブタンのヒールをいつでも本物の新品に取り換えてれる靴やがすぐそこにあるのよ。といってケラケラと笑った。
 今時のパリジェンヌのライフ・スタイルをのぞき見た気分だった。

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2016年07月09日

アベスのパン屋はパリで一番

アベスのパン屋はパリで一番

 美味しいパン屋に触れない訳にいかない。パリ通いは写真やなにやらとともに美味いもの願望もある。
 若い頃には、天皇陛下も食べたナンバー付の鴨が食べたいとか、マドレーヌでキャビヤのランチとか、結構オバカな欲望もあったが、いまはまったく無い。
 とにかく美味いクロアッサンと美味いバターとバケツトに遭遇すれば、このうえなくシアワセである。
 モンマルトルの山麓にアベスというメトロの駅がある。かのギマールによつてデザインされた有形文化財アールヌーボーの駅だ。隣には「ベーゼの壁」のある愛の公園もある。
 駅前の道を西へ100メートルほど行くと目的のパン屋がある。
 2010年のパリ・バケット・コンクールで第一位になった店だ。「Le Grenier a' Pain ル・グルニエ・ア・パン」今年いってみると、さらに2015年パリ・バケット・コンクール第一位が追加されていた。
 モンマルトルで、頑固にパン作りをしている小さな店だが、エリゼー宮の大統領が毎日たべているパンという
心意気が使わってくる。火曜、水曜は店はお休みで、エリゼー宮に届ける分しか焼かない。この日は、クロアッサンとショーソンとパン・オ・ショコラを買って帰った。
 最近アキ・ブランジェリーという店が話題になっている。地下鉄ピラミデの側、パリに嫁いだ日本の女子アナなどが、パリにロケにくる日本のテレビに宣伝するので日本人の旅行者が行く。ただこの店はパンだけでなく、抹茶やあずきの菓子パンやらとんかつ弁当やら手広くやっていて、いかにも日本人らしく朝から夜まで営業している。
 広げ過ぎると味が落ちるというのは、パリでも言われていることでカイザーなどがそのいい例、アキも味が落ちたと言われないよう頑張って欲しい。
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2016年07月08日

歴史はボン・マルシェに始まった。

歴史はボン・マルシェに始まった。

世界のデパートの憲法を作ったのは、サンジェルマン・デ・プレにあるLe Bon Marche' ル・ボン・マルシェだといわれている。
 それまでのお店は店頭に商品を飾ることはせず、客の要望で奥から商品を出してきて販売した。それに対し
ボン・マルシェは総ての商品を並べてアピールする展示販売を始め、派手なショー・ウインドウを演出した。
それのみならずパリ万博に見習って、季節の大安売りソルドも始めた。接客のシステムを含め、デパートのビジネス・モデルは、総てこのボン・マルシェによって作られた。
 1838年生地屋のヴィドー兄弟によって開設され、52年には帽子屋のアリステッド・ブシューに買い取られ、1887年にオペラ座をモデルにした本館が完成した。1984年にはルイ・ヴィトン・グループによって買収され、ユダヤ企業となった。
 ロンドンのハロッズが、ダイアナ妃の恋人の父親アラブの石油屋に買収されたのと、前後している。
 1865年、ボン・マルシェで働いていたジュール・ジャリュゾが独立して作ったのが、サンラザールのオ・プランタン。 オ・プランタンは歴史的建築物として登録されているほど、良き時代の香りがする。
とくに最上階にあるブラッスリー・プランタンの丸天井は半日ながめていても飽きない。アールヌーボーの傑作である。
 もし石畳で彼女がヒールを痛めたら、迷うことなくプランタンに飛び込むことだ。見渡す限り靴靴靴、ワンフロアすべてが靴という売り場がある。ルブタンの赤い靴から、マムラー向きのカジュアル・シューズまでなんでも揃っている。
 プランタンも1991年にはグッチの親会社に買収され、2006年にはさらにドイツREEPPとイタリアBorietteに売却された。
 そしてその隣、オペラ・ガルニエの裏にはヨーロッパ最大規模ののギャラリー・ラファイエットがある。
本館のステンドの大丸天井の見事さは必見、これまたアールヌーボーの傑作なのだ。
 本館、紳士・食品館、インテリア館の三つに別れている。食品館二階のラファイエット・グルメには随分と
世話になった。インテリア館もポップで飽きない。
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2016年07月07日

30の風車が3つになつたモンマルトルの丘

30の風車が3つになつたモンマルトルの丘 30の風車が3つになつたモンマルトルの丘

 モンマルトルの下町に突然「赤い風車」があるのだから、キャバレーの屋外デザインと思われても仕方がない。半世紀前、筆者が初めてムーラン・ルージュの前に立った時も、歴史的デザインとはこういうものかと
半可通な理解をした。
 ある時、夕方のルピックの市場を冷やかしながら登って行くと、目の前に突然現れたのが、「ラデの風車」だった。みどりの森から何気に顔を出している木製の風車だ。あっここにもあった位の気分で坂道を後にした。
 ムーラン・ルージュでのショーが評判をとり、グレコが見に来たり、サン・ローランが観客としてくるに及び、ある日、RTFラジオ・テレビジョン・フランセーズからショーのセレクト版を放映したいのでという連絡がきた。ところが当時のRTFは、テレビ・スタディオがまだ不足していてセーヌ河畔の本社では録画できないので、モンマルトルの風車でやりたいというのだ。
 早合点したスタッフは、先日出会った「ラデの風車」を目指したのだが、どこにもスタディオは見当たらない。はてと、周りを見まわすと東の森のなかにさらにもうひとつの風車が見えた。「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」この辺は道に突然階段があつたり、微妙に湾曲していたり、狐につままれたような気分で隣の風車をめざした。
 いまではレストランにかわつてしまった風車のしたの家はスタディオになつていた。
 予定の時間にいったところ、まだホリゾントに絵を描いている。フランス人の考える日本の風景が未完成なのだ。ホリゾントいっぱいにシヨーの背景を描き込むことなど、東京では全くなかったこと。照明ひとつで次々とバックの転換をしていた日本の常識とあまりのへだたりにビックリした。丁寧なのか、間抜けなのか、フランス人の根性みたりであった。
 いまでもモンマルトルの丘には、「赤い風車」と「ラデの風車」と、「ギャレットの風車」、三つの風車が存在している。
 この辺りいったい葡萄畑の100年前までは、モンマルトルに30余りの風車が回っていたと、教えられた。
posted by Kazuhiko Hoshino at 13:41| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月06日

黒猫からムーラン、そしてスタバへ

黒猫からムーラン、そしてスタバへ

 黒猫というと、気持ち悪いとか、怪談ばなしのほうに偏って、なかなか歴史遺産のほうに話題がいかない。
 Le Chat Noir 「黒猫」はパリのカフェ・コンセールの歴史でもつとも重要な原点になつている。1897年モンマルトルの麓ロシュシュアール通り84番地に、黒猫が誕生したことにより、パリのカフェ・コンセールの歴史が始まった。
 黒猫にはピカソを初め、サティもユトリロもロートレックも、芸術家たちは夜な夜な集まって文学を論じ、芸術論を交した。町の人々は、黒猫はアンコエラン支離滅裂な人々のたまり場とよんで遠巻きにしていたという。
 カフェ文化と呼ばれ芸術の都のいったんをになった黒猫の存在がいかに重要であったかは、パリの歴史を展示するカルナバレ博物館へ行くと、いちばん目立つところに、当時の黒猫の看板が展示されていることからも良くわかる。土産やでは黒猫のマグネットやエプロンが売られているし、黒猫のポスターは、いまだに宣伝美術の規範になっている。
 黒猫に誘われて、19世紀末から20世紀初頭にかけて、モンマルトルのカフェ全盛期があった。ムーラン・ルージュやリドなどトップレスの踊り子が競う高級キャバレーがつぎつぎと生まれ、華やかなショーを競った。フレンチ・カンカンが、コンテンポラリーな踊りとして市民権をえ、カンカンのの踊り子のガーター・ベルトは、遊び人たちのアリセサリーになった。
 カフェ・コンセールは舞台を広げ、いつしかモンパルナスへ移り、ドーム、ロトンド、セレクト、クーポールなどが生まれ、戦後はさらにサンジェルマン・デ・プレが中心となり、ヌーボーロマンやヌーベル・ヴァーグ、実存主義の発信地となった。
 いまではあちこちにスタバもあるが、スタバから芸術が生まれる予感はない。やはりカフェとサロン・ド・テと、毎夜華やかなショーを上演しつづけているキャバレー、カフェ・コンセールは貴重な空間なのだ。
 クリシー通り68番地のBISTROT CHAT NOIRには、…1951年ビアフが「愛の賛歌」を創唱したと、歴史道標が誇らしげに建っている。
posted by Kazuhiko Hoshino at 12:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月05日

醜悪なピエロと化したルイ・ヴィトン美術館

醜悪なピエロと化したルイ・ヴィトン美術館

 サザビー創業家のトムさんが、中身は見るに値しないが、外形だけは見ておいてもいい、という意見だったので先年ブローニュの森のアクワマタシオン公園まで、足をはこんだが、いまひとつ全貌をとらえられずにいたので、今回もう一度訪ねることにした。
 あのグッケンハイム美術館や、フェイスブックNYオフィスを設計したフランク・ゲーリーの仕事をじっくりとみておきたかった。
 「林と庭園に囲まれた自然環境に溶け込み、光と鏡の反射に浮かび上がるヨットや船のイメージ」あるいは「透明な雲のイメージ」だった筈のルイ・ヴィトン美術館がとんでもないことになっていた。その姿は「林と庭園に囲まれた自然を軽蔑して、光も鏡の反射もない醜悪なピエロ」あるいは「ごみ屋敷の婆さんのイメージ」の
ルイ・ヴィトン美術館であった。
 透明の3600枚のガラスが、赤と緑の醜悪な市松模様に代わっていたのだ。その姿は疲れたピエロが脱ぎ捨てた市松模様の舞台衣装のようにも見えた。小さければともかく巨大なおもちゃ細工がブローニュの森に覆いかぶさっていた。あのたたずまいを美しいと感じるフランス人はまずいないだろう。後進国からきたお上りさんか、醜いコピーを平気でつくる中国人ならまだしも。
 大きな12面を3600枚のガラスでつくった不思議な造形のみごとさは、何処かへいってしまった。
 美術館はシャンゼリゼーにあるルイ・ヴィトン本店とは違う。売り出しの度ごとに大げさなディスプレイでお上りさんの眼をひく商人のあこぎな精神が、ブローニュの森の入り口に出現したのではないだろうか。
 バブルの頃から異業種参入とかで、美術館建設があちこちですすめられた。が何かが違う。軽井沢にも通信教材の会社がつくった千住博美術館なるものがあるが、コケ脅かしのコンクリートのかたまりは、作品に対する
愛情はなく、四方八方から光が入って作品劣化は保証されたようなものだった。一年開館を伸ばしてあちこちの光を遮断しようやくオープンにこぎつけたが、足元はやたら勾配が多く観客に不親切な美術館のままなのだ。
 光のことからいえば、モンパルナスのカルチィエの美術館も情けない。一階、二階と地上にある建物は総ガラスで、上等な作品は一切展示できない。書き割りか玩具しか展示できないというナンセンスな美術館である。
 宝石商やバック屋が少し儲かったぐらいで、美術館に手をだすというが、そもそも間違っている。
ブローニュの森のルイ・ヴィトン美術館がいつまであの醜悪な市松模様をまとっているのかしらないが、オーナーも設計家ももう少し頭を冷やしたらよかろう。
posted by Kazuhiko Hoshino at 13:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする