2017年08月24日

道具としてのマイ・カメラ

道具としてのマイ・カメラ

 学生時代、カメラはWELLというどこが作ったかも判らないカメラをつかっていた。
 カメラ仲間のボスは、ライカをもっていた先輩である。ライカは憧れだったが、手が届かなかったので、ライカの持ち主はごく自然にボスの地位に就いた。集まるとみんなで先輩のライカに触って満足していた。
 コンタックスを使っていた友人は、女子校生と恋に落ち自殺してしまった。
 うんちくに五月蠅い仲間はパーレットという蛇腹式のカメラで単玉レンズの味を主張していた。二眼レンズのローライフレックスを持っていた友は、ポートレイトは二眼の6×6版フィルムに限るといつも自慢げに発言していた。女性を映したら4枚構成のテッサーレンズに優るものなしと豪語していた。
 女性とレンズの相性とはそんなに難しいものかと、感心もし疑問をもちながら、テッサーで撮った彼女の写真を見せられていた。

 現像も引伸ばしも全部自分でした。勉強部屋の押し入れを改造し、畳一畳の狭い空間を現像室と称し、バットを並べて一液、二液、三液、そして定着をこなし、赤いランプのもとでフィルムを乾燥していた。プリンターは忘れてしまったが、引伸ばしはハンザの引伸ばし機だった。温度管理もできない押し入れ現像室では、半分ちかく現像の失敗があった。引伸ばしもせいぜい四つ切ぐらいまでで、展覧会の出品作は先輩の広い現像室を借りた。

 初めてのパリには、キャノンで広角、標準、望遠のレンズを携えていった。ドイツのカメラに対してようやく日本のカメラが認められてきた頃だった。がキャノンのシャッターの調子が悪く、二、三回の修理ののち売ってしまった。キャノンは日本で買った値段の倍近くの高値でうれた。
 かわりにローライフレックスの露出計付きを手にいれた。二眼レフでみたベネチィア夕景の揺れるゴンドラが忘れられない。

 帰国後、ニコンを手にいれたが、お祭りに足しげく通い、フィルムの枚数の少なさにストレスを感じるようになった。一時はオリンパス・ハーフという倍の枚数がきれるカメラを重宝につかっていた。いつも冷蔵ケースに1ダースのフィルムを入れ絶えずフィルムの温度と数を頭に入れて撮影旅行していた。
 デジタルのいま、撮影はほんとうに楽になった。小さなメディアで1000カットも2000カットも撮れる。高齢になった今は、ミラーレスの軽さが圧倒的にシアワセである。
posted by Kazuhiko Hoshino at 16:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする