2017年09月11日

インスタ映えに走る人々

インスタ映えに走る人々

 ネット時代は自己発信の時代でもある。
 僕らの青春時代は自己を抑えることが美徳とされ、口にしない、腹に収めることこそが大切な行動基準だった。欲望を表にせず、周囲の人に心を配って、つねに謙虚であれというのが、日常生活の基本であった。
 それにしてもストレスはたまる。たまったストレスの吐出し口として存在したのが、「日記帳」だった。日記帳にはその日いちにちに起こったこと、困ったことも嬉しかったことも、嘘偽りなく書いた。が日記帳は決して公開しない。誰にも見せないことが原則だった。ひそかに一人で書く日記帳の楽しみというのもあった。

 ある時交換日記というのが登場した。秘かに思いを寄せた女子の下駄箱に交換日記を入れて置く。彼女が受け入れてくれれば、何日か後にその日記帳が彼女の思いとともに帰ってくる。ドキドキしてめくった日記帳の余白に押し花などあれば、有頂天になってシアワセな時間を過ごした。学校では海外にいるお友達との交換日記を推奨された。まだ手ずくりのコミュニケーションの時代だった。

 やがて恋文を覚えた。渋谷の駅前マーケットの入り口には、当時の街娼たちがアメリカへ帰ってしまった兵隊への恋文を代筆してくれる恋文屋があった。英語の恋文が書けるのだから、よほど教養のある伯父さんに違いないと、ニキビ仲間と計らって見に行ったことがあった。普通の伯父さんがパンパンの相手をしていて、拍子抜けしたことがあった。

 恋文の手本は文豪たちの手紙だった。文豪の恋文はひどく率直で、あきれるほどに直情型が多いということを学んだ。その上、禁欲ということがなかった。だから小説家になったと事実に気が付くのに数年を要した。手紙にはあらゆる形式があり、いつか世間の荒波に流されてつまらない手紙しか書けない自分にハツと気が付く。

 パソコンとともに一気に世界が変わった。
 メールが登場した。請求がメールできたのに驚いた。やがて世間はブログだらけとなり、芸能人は広告収入をねらってブログをやる。書くほどの時間もなければ、内容も薄く、日常報告の程度だ。文字知らずだらけとなり、簡単便利なツィッターや、仲間意識のラインとなった。
 それでも満足できない人は「インスタ映え」に走っている。言葉いらず見せれば通じるといった点で、自己顕示欲のかたまりには、インスタとユーチューブは最強のツールだ。
 こうしたネットの自己顕示欲に哲学や思想がともなってくるのは何時のことになるのだろう。

posted by Kazuhiko Hoshino at 12:35| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする