2018年01月20日

大寒の水について

 今日は「大寒の日」である。いつの頃からか、大寒の水を取り替えるのは筆者の役割となっている。 押し入れの片隅に三本の一升瓶が並んでいる。瓶は毎年の水入れ替えが無事なされたというラベルでいっぱいになっている。
  第一の瓶は天皇家御用の酒「惣花」、第二の瓶は表千家御用の酒「松の翠」そして第三の瓶は「ほしのの酒」である。この三つの器に入れられた古い水をすて、大寒の日の新しい水に替えなければならない。この寒の水の信仰は相方が京都からもってきたので、30年の年月が経っている。丁度この頃は、初釜の頃とぶつかっているので、遠いかの地から「今日は大寒の日だから」とか「大寒はやっぱり寒い」とか水入れ替えを示唆する電話が度々かかってくる。

 そもそも寒の水の信仰は、田の湧き水や清玲な川の水、あるいは地下を流れる井戸水にかかわることなので、水道水の寒の水では全く効果なしとも思えるが、うっかりそんなことを言おうものなら大騒ぎになるので、口を謹んで寒の水の習俗に従っている。
  古来、小寒から寒の終わりまでのこの間の水は、雑菌が少なく、腐らないので、汲み置きをして味噌、醤油の作り水にしたり、お酒つくりにつかったといわれる。なかでも寒に入って9日目の寒九の水には霊力があるので薬と共に飲む服用水としてこれほど有難いものはない、と言われて来た。修験者が滝行で水に打たれるのも、この寒の水にあたるのがもっとも霊験あらたかといわれてきたからだ。

 下町では、この日「寒卵」を近所に配った。寒の日に生まれた卵は薬になり、邪気を払うといわれて、ざるに入った卵にお社の手拭をかけ、日頃お世話になっている町内のお家にとどけたものだ。
 帰りのざるにはマッチがひとつ入っていた。

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2018年01月17日

くまもんの末路が見えた

くまもんの末路が見えた

 日本文化の底の浅さと幼稚性のシンボルともいえる、縫いぐるみ商売にようやく終わりを告げる光がみえてきた。海外のイベントなどで、とくに政府主催のジャパンウィークなどで、パーティのクライマックスに登場するクマモンに遭遇すると顔から火が出るほど恥ずかしい。招かれたかの地の識者もどうしてここに子供のアイドルが登場するのか全く理解できない。カンヌの映画祭などでは、まわり中から非難をあびた。
 主催者の脳みその問題なのか、それとも代理店のレベルの低さか、制作プロダクションまたは構成者の下品と無知によるものなのか、第三者には判別付きにくいが、すくなくとも先進国でのイベントに縫いぐるみはお止めになるべきだ。日本の文化はそんなに幼稚ではないし、世界から尊敬される伝統も持っているのだから、もう少し王道をいかないと日本の現実が馬鹿にされる。

 今日の話題はその「くまもん」にまつわること。いままで熊本県内の業者に限られていた「くまもん」のデザイン使用の権利が、今年から海外業者にも解放されることになった。当初予想だにしていなかったくまもん人気で、中国などのネット通販で売られていた「くまもん」54個中本物は3個しかなく、あとはみな偽物だったという調査結果がでた。
 そこで熊本県は考えた。ならばいっそ使用権を解放して高いローヤリティをとったほうが儲かるではないか、という小あきんどの根性だ。そのうち上海辺りの旧租界沿いに、熊本県クマモン著作権管理センター中国支部などができて閑古鳥がなく風景が見れるかもしれない。

 デザイン盗用、偽物については、いつも中国が俎上にあがる。取り締まっても取り締まっても成果があがらない。日本人は単純に商売上のモラルとして捉えるが、大きな間違えだ。
 もともと中国には著作権という考え方がごく最近までなかった。人間の創作物を人間が利用してどこが悪い、人間の創作したものだから人間が使用することは人間の権利であるという考え方だった。
 そこに資本主義が入ってきて著作権だ、著作物だ、二次使用にも金払えといってきた。いまは資本主義が強いからとりあえず拂っとこか、という対応なのだ。ついこの間まで A面ビートルズB面美空ひばり のレコードを売っていたお国柄なのだから、中国の地方までの著作権管理はまず不可能と考えたほうが正しい。奥地まで資本主義的商法が徹底するのには、何十年もかかることだろう。
 熊本県の目論見はまず100パーセント失敗が見えている。
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2018年01月16日

したたかな中国、韓国、北朝鮮

したたかな中国、韓国、北朝鮮

 中国、韓国、北朝鮮、それぞれの外交政策について、考えてみよう。

 中国はパンダ外交で一気に点数をかせいでいる。気のいい日本人はパンダを見ただけでシアワセを感じ、中国人はとてもいい人と錯覚している。何にもできない小池都知事が、わざわざいつからは先着順にパンダを見せますと記者会見するほどだから、よほどパンダは日本人の奥底にすみついているのだろう。
 パンダて稼いでいる隙に、尖閣諸島の海には、中国海軍の原子力潜水艦がやってきている。もはや尖閣の海は中国軍の実質的支配下にあると、国際的に認知させようという下心は明らかだ。
 尖閣は日本領といくら日本がさわいでも、実質的支配権は中国側にあると、公船やら潜水艦による実測図をもちだして、島にはここ何十年日本人の痕跡はない、したがって尖閣は中国領土であると、詭弁をろうしてくることだろう。

 韓国はせっせと世界中に従軍慰安婦像を作り続けている。アメリカにもカナダにもヨーロッパにも、とにかく眼につくところにははじから従軍慰安婦の像を作り続けて、日本をおとしめている。
 朝日新聞の誤報にはじまったこの問題は、国内向けには朝日は記事取り消しをしてお詫びをしたが、海外向けの英字紙上ではなんの取り消しもお詫びもしていない。
 これほど日本人の尊厳を傷つけ、世界に日本人の不道徳性を喧伝した新聞はほかにない。そのうえ尻馬にのって従軍慰安婦はいた、と信じている反日日本人がそこらじゅうにいるのでは全くやりきれない。

 土壇場になって北朝鮮は五輪参加を表明した。ヨロコビ組応援団とサムジョン管弦楽団の何百人を参加させようという見事な外交戦略である。 韓国はオリンピックを開催したものの切符の売れ行きがいまいちで困り果てていた矢先の見事な外交戦略だ。
 日本のメディアは早速に、三池渕管弦楽団とは、ペクト山の麓金総統生誕の地、革命の聖地の名を冠した美女オーケストラで、メンバーはすべて音大卒の美貌とプロポーションにすぐれたエリートオーケストラであると、頼まれもしないのに北朝鮮の電通になっている。

 こうしたしたたかな国々に囲まれた日本のユルフン状態には困ったものだ。パンダも、慰安婦像も、ヨロコビ組もみな政治問題であり、民族の威信にかかわる重大事だという認識がない。
 オリンピックと政治問題は別というお念仏に浮かされ、なにも考えずに平昌に行きたい記事だけが、紙面に踊っている。
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2018年01月14日

信州旅館ホテルのベスト・スリー

信州旅館ホテルのベスト・スリー 信州旅館ホテルのベスト・スリー 信州旅館ホテルのベスト・スリー

 友人から信州のホテル・旅館ベスト3の問い合わせがあった。
 僕らに聞かなくとも沢山の旅行誌や情報が出ているので、それでお好みを選ばれたらと返事をすると、いやどこまでが広告掲載か、本物かの区別がつかない。かってルポ形式の記事を信じて旅をしたところ、まんまと騙された。あの思いは悔しいので、本当のところを是非聞きたいという問い合わせだった。
 広告出稿とのバーター記事がほとんどなので、情報誌の情報は信用できない、だから君に聞きたいという問合せだった。

 それでは信州の二つの旅館と一つのホテルをご紹介するということになった。
 まずひとつは信州の南端にある昼神温泉から「石苔亭いしだ」
 立派な能舞台のある隠れ家のような山麓の宿だ。まず迎えてくれる恵比寿門に驚く。堂々とした佇まいはこの宿の心と歴史そのものを突き付けてくる。そして玄関をはいると橋掛かりのある本格的な能舞台が迎えてくれる。春には二千体の雛飾りで満たされ、おもてなしの狂言やら伊那谷の民俗芸能にふれることができる。湯良し、食良し、文化のかおりがいっぱいの昼顔の湯宿である。

 二つ目の宿は中信・仙仁温泉の「花仙庵岩の湯」
 須坂から菅平に抜ける峠の入口に位置している。東屋風の入口をくぐり仙仁川を渡ると宿の玄関に至る。東山に抱かれた京都の料亭にも似たつくりが嬉しい。宿のなかにはいたるところに書斎あり、休みどころがあって、旅人のくつろぎを考え抜いた空間にあふれている。もてなしとはこういうところからしか生まれてこない、という宿のつくりなのだ。
 湯自慢は30メートルにも及ぶ洞窟温泉、ライトアップされた庭の散策も楽しい。

 ホテルはためらうことなく白馬の「ラ・ネージュ東館」をあげた。森のなかのホテルというのはこういうホテルをいうのだ。樹木一本一本を計測してその森と共存できる設計をかんがえている。森に無理やり持ち込んだモダンなホテルは随分あるが、ここは初めから共生し調和した建築になっている。ヨーロッパのマナーハウスのような品位と格調のあるロビーから、レイノーの食器、ベッカーハウスの家具、すべてが世界の一流で満たされている。そして圧巻のステンドグラス、森の中のウッドデッキと最上のホテルライフが約束された本物がここにある。
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2018年01月13日

君はサウジの女になれるか。

君はサウジの女になれるか。

 もしも貴女が一線を超えたら、死刑がまっている。絞首刑か、斬首刑か、または銃殺刑か、いずれにしても死刑になるほかはない。
 サウジアラビヤのお話しだが、昔話ではない。いま現在2018年のドキュメントなのだ。

 婚外交渉にたいする戒律ばかりではなく、女性は外を独り歩きしてはいけない。夫または父親に付き添ってもらわねば外出もままならない。夫または父親がいない場合は、欲望をもたない男を従者として連れ歩く。日常のお買い物も当然この戒律を守らなければならない。
 女性はパスポートを取ることも許されない。父親または親族の男性のパスポートに併記されて、ようやく海外旅行が可能になる。

 もっと不自由なのは女性には運転免許証も交付されない。車の運転はすべて男性がしなければならない。女性有力団体が、ここ数年度々国王に直訴したが、返ってくる答えはいつも「もう少し我慢するように」。
 現国王になってようやく今年の6月から女性の運転免許が取れるようになる、という朗報がとびこんできた。ただ女性外出時の服装についての制限はそのままなので、眼だけが見えるアバヤでは、危険運転にならざるを得ないと、識者は心配している。

 銀行口座もつくれない。スポーツ観戦もゆるされない。スタバすら女性は入店禁止。女性は結婚して子供をつくってようやく社会人として認められる。
 こうしたルールを差別と思うか、区別と受け取るかでサウジに於ける人生観はまったく変わってくる。ただ一つ確かなのは、今の日本人にはまったくサウジの生活は出来ない、ということだろう。
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2018年01月11日

男性に女性を口説く自由を!!!

男性に女性を口説く自由を!!!

 ハリウッドの有名プロデューサー、ハービー・ワインスタインのセクハラ騒動に端を発して、アメリカ中のメディアがモラル戦争に参戦している。
 なにしろ被害者に大物女優が揃い過ぎている。かのアンジェリーナ・ジョリーを初めとして、メリル・ストリーブ、グウィネス・パルトローなど超大物が揃っているので、斎藤由貴ひとりどころではない大スキャンダルに発展してきた。

 お蔭で、ワインスタインひとりにとどまらず、90年代のスター、スティーブン・セガールやら、ダスティン・ホフマンの性的不品行まで暴露され、「あからさまに色目を使い、セックスの話をしてきた」というグレアム・ハンターに対し「もし私がそういうことをしたのなら、誠に申し訳ない。私は女性に最大限の敬意を抱いている。そのことで不快な思いをさせたのなら、それは本来の私ではない。」と訳の分からない言い訳をしているのがダスティン・ホフマンだ。

 この騒動のうらには民主党対共和党のアメリカ政界事情があるという解説もある。
 ワインスタインは、クリントン夫妻とも親しく、オバマの後援者にも名をつらねていたので、保守派のFOXニュースは「金持ちリベラルの偽善」と報じて政治ニュースに仕立てようとしている。この騒動が拡大すれば、ことはトラムプ大統領のセクハラ体質にも及び、トランプの化けの皮をはがすことが出来るかも、という反対派の思惑も働いて虚々実々の暴露合戦になっているという側面もあるようだ。

 割って入ったのが、フランス映画界の大女優カトリーヌ・ドヌープ。フランスの女性文化人100名と連名で、ルモンド誌に意見広告をだした。
 「男性にも女性を口説く権利と自由を認めるべきだ。女性の幸せにとって男性の性的関心は必要かつ自然なことである。」大統領が夜な夜なエリゼー宮を抜け出して、愛人のもとに通うお国柄、さすが人間主義のフランスにふさわしい発言である。

 政治家からタレントまで、一線を超えた超えないで興奮ぎみの日本に、カトリーヌ・ドヌープはいないのだろうか。

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2018年01月09日

シロウトは黙っていろ

シロウトは黙っていろ

 透明性と説明責任、そしてすべてはガラス張り、いつからこんなことが大手をふって歩くようになったのだろう。説明責任を何回つくしても、左翼や民主にはわからない。来シーズンもモリカケ問題を追及するとはりきっている。いい加減にしてほしいとおもうが、議員先生方には、身近に迫った国防論議より、モリカケモリカケといっているほうが、楽なのかもしれない。

 2020東京五輪のマスコットもおなじことだ。6月まで全国の小学校児童による投票で決めるという。子供に媚びて、その後ろにいる母親に媚びて、無駄な時間と経費を使っている。どのキャャラクターが良いか、悪いかを美意識の育っていない子供に判断させ、なにを企んでいるのかわからない。こんなことは民主政治でもなんでもない。子供相手の暇つぶしでしかない。
 もしこれで子供たちにたいし、君たちが選んだ素晴らしいマスコットが誕生しましたなどと、宣言するのであれば、それこそ大人の欺瞞そのものではないか。子供たちには正常な判断力がないからこそ、選挙権もない。いわば未熟な半人間、それが子供たちなのだ。

 お互いの能力をきちんと認識しない風潮も困ったことだ。
 なんでもかんでも体験学習やら体験旅行と銘打つ。名人上手の仕事でもすぐに素人が手をだす。名人も断ることなくどうぞと手を貸す。「貴女には無理だからそこで黙って見ていなさい」、とはっきり言う名人がいない。みんなにこにこと素人に媚びをうる。素人は喜んで私にもできます、とぬか喜びとなる。全体のレベルはますますさがっても誰も責任はとらない。世の中の風潮だからと素人の体験旅行ははびこる一方だ。
 シロウトは黙っていろ、というプロがいなくなってしまった。

 「一を聴いて十を知る」ということわざがあった。今では「十聴いても一も判らない」という体たらくだ。選考過程をオープンにするのと、プロにまかせる度量というのは両立できる筈と思うが如何。



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2018年01月08日

自浄能力は何処へいった

自浄能力は何処へいった

 相撲界が揺れている。日馬富士と貴ノ岩の喧嘩問題に引き続き、今度は立行司式守伊之助のセクハラ事件だ。ワイドショーは解った風な解説をくわえ、あっちが悪い、こっちが悪いとメディア裁判をしている。組織や社会での生活経験がないタレントたちや、付和雷同のテレビ御用評論家の愚かしい意見を聞かされて視聴者はうんざりしている。

 いずれにしても酒を飲み、酔っぱらった上での揉め事にちがいない。
 筆者の昔を振り返ってみても、酒の上でビール瓶でなぐったとか、かくれていた性癖が顔を出しキスされたとか、そんなに珍しいことではなかった。両者はその日のうちに和解したり、翌日手打ちをしてなにごとも無かったようにもとに戻っていた。

 警察も酒のうえでの喧嘩はとりあげなかったし、同性愛の性癖が少し出たぐらいでは新聞にも登場しなかった。ここには質の良否を問わず、情報のすべてを商品化する今の時代のえげつなさ下らなさがある。新聞、週刊誌、とくに地上波テレビのおバカ加減には開いた口がふさがらない。
 組織の基本ルールも知らない司会者が、警察に届けたのは正しい、理事会で黙っていたのは親方らしかったなどと、とんでもないことをいっている。

 要は自浄能力、自律能力の減退にほかならない。当事者同士の話し合いができない。いちいち警察に頼る。 自分の能力のなさを曝け出すようなオロカシイ行為だということが、判らない。人間の能力が極限まで落ちている。まったく世の中がすべてマニアル頼みの他人依存になっているのだ。
 核装備の他人依存は致し方ないとしても、サイバーによる自主防衛など、本気になって議論すべきだろう。
 誰の物まねが上手いとか、どこのラーメンが旨いとか、そんな下らない事よりはるかに大きな問題が山積しているのだから、メディアはもう少し正気になって、番組編成を考えたらどうだろう。
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2018年01月05日

切餅ですか、丸餅ですか

切餅ですか、丸餅ですか

 本郷西片町に育ったので、お雑煮は醤油の出し汁に四角い切り餅だった。鳥と人参と大根の入ったごく当たり前の関東風という雑煮だ。
 師走も押し迫って、町内のお米屋さんが餅を届けてくれる。玄関、床の間、神棚、仏壇、台所、そして御不浄に飾る重ねのお鏡餅と、4枚ほどの伸し餅、大晦日に伸し餅を食べやすい大きさに切るのは二年参りの前のイベントだった。

 相方が変わった軽井沢では、丸餅になった。信州には美味しい丸餅がないからといって京都から取り寄せる。近頃はググッテ魚沼産の丸餅だが、サイズが雑煮椀と合わずなぜかバランスの妙にかける。白味噌はナカヒガシさんが、送ってくださる。白味噌以外なにもない仕立てに丸餅の雑煮はなるほど神様に供える神事食の趣がある。その昔宮中で歯固めの儀と鏡餅の祝いがひとつになって生まれた雑煮と伝えられるが、白味噌の雑煮には、ある種の宗教性を感じる。

 丸い餅のかたちは、心臓のかたちとか鏡のかたちに擬したといわれているが、なるほど稲、コメの霊力をさらに突き固めた餅には、延寿、長寿の霊力が倍増していると信じたくなる。丸餅を二つ重ねて神仏にささげるのは、人間の素直な営みだったのかもしれない。
 京都祇園町の井上流の稽古場には、弟子一同芸舞妓から町方のお弟子さんまで、すべての名義の重ねの鏡餅がずらりと供えられる。お茶屋や屋形でもそこに籍を置く芸舞妓は重ねの鏡餅を供える。捧げた鏡餅を前にして、事始めを祝い、初寄りを祝って新しい年が始まる。

 コメから作った酒で乾杯し、コメからつくった餅を食して、日本人の暮らしは保たれている。稲とコメにたいする日本人の信仰は、キリストよりも、釈迦よりも絶対的な存在なのだ。
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2018年01月03日

明石家さんまという「素人いじり」

明石家さんまという「素人いじり」

 「明石家さんま」という芸人ほどテレビにとって都合のいい芸人はいない。
 バブルがはじけてから随分多くの芸人が上京したが、テレビジョンという媒体にとって「さんま」ほど重宝な芸人はいなかった。吉本から松竹芸能から次々と送りこまれた芸人たちは、どれもこれも貧困な、または下品な芸を売り込んでは自滅していった。
 さんまはこれといって芸は売り込んでいない。正確にいえば、芸はないのかもしれない。それが今日のサンマを産みだした。芸がないというのが、さんまの特徴であり、さんまの武器になった。サンマのサンマたるキャラクターがもっとも輝きを見せるのはシロウトと対峙したときだ。
 シロウトをいじらせたらさんまの右に出る者はいない。シロウトにはギャラを払う必要がないので、(払っても交通費プラスなにがしで)懐不如意のテレビ局に取ってこんな有難いことはない。さんまの番組には、なるべくシロウトを多用することで、製作費の節約になるし、かえって面白さが生まれる。
 つまり「明石家さんま」はさんまとテレビ局の合作ともいえよう。

 さんまのオフデューティ、もっぱら都内のキャバクラだそうだ。キャバクラでは、さんまは徹底的に遊ぶ。それもかなりエロく楽しむ。女性の一人遊びに使用されるマッサージ機をふりまわし、女の子たち皆に試しては反応を喜ぶ。さらに果物や野菜を女の子に食べさせ、もっとエロく食べろと、引き笑いで楽しむという。
 女の子全員に指名をつけ、チップも弾んで、一晩に百万以上は使って気前がいいので、店からも女の子からも嫌われないという大尽遊びが、さんまの夜遊びと伝えられている。

 さんまもよる年波には勝てず、最近は「俺の子を産んでくれ」と若手のタレントや一夜妻にねだっている。一夜妻が「もし子供を産んだらいくらくれるの」と問いただしたところ「そやな月30万でどうや、マンションも借りたる」「そいじゃ、IMARUちゃんのこずかいより安いじゃん」と言うと「あれはお金がかかったわ」と苦笑していたという。金はあると常日頃豪語するさんまも、案外シブチンだという話だ。
 地上波テレビにおける人気の終わりが見えてきたのかもしれない。いつまでもシロウトをいじっていたら、いつか棄てられる現実に気がついているのかもしれない。
posted by Kazuhiko Hoshino at 22:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする