2018年07月31日

メディアの眼が小さすぎて不安になる。

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文科省科学技術・学術政策局長佐野太(58)が、馬鹿息子の裏口入学を画策、東京医科大学へ私立大学支援事業の便宜供与。
 馬鹿息子のために親が奔走する話なんぞは昔からうんざりするほどあった。とくに医科系大学では、寄付金の多寡がものりをいう。あいつは2.000万円、あいつは3.000万円、親バカ子バカで無駄金動く、と想定内のハナシ。

 財務省福田淳一事務次官、女性美人記者にセクシー・ハラスメント。
 報道志望の新入女子社員について、管理職はヒタイを寄せてシフトを考える。
あいつは行動的で少し美人だから、官邸行。あいつは色っぽくて危ない感じもあるから、財務省。身体剛健、丈夫だな、うん警視庁。取材能力が無さそうだから宮内庁担当。口にはださなくても、人事担当はそのあたりでシフトを作る。報道記者をめざす女性たちはそのくらいのことは覚悟のうえで乗り越えなければ、明日はない。「夜討ち・朝駈け・色落し」は報道の三原則、下賜されたニュースで間に合うのは宮内庁ダケ。

 財務省エリート主計官、朝日新聞アエラ美人記者と不倫生活、再度調べたら朝日新聞社員ではなくアエラ担当社外美人記者と判明。翌日から報道は消え失せた。

 IR特別法案、自民、公明の賛成で国会通過、いよいよカジノ具体化へ。
 かって民進党時代、野党にIR推進議員連盟があった。中心は長島昭久、松野頼久、約40名の議員が集まったとある。あの時は推進、いま反対、観客にはよく理解できない。新聞も追及しない。野党も博打の常習性に反対なら、まずパチンコ屋に営業規制をかけて、23兆円に及ぶ地下経済の息の根を止めたら如何。どうも主張することと、現実に疑問が生じる。パチンコの地下経済の恩恵をうけているのは、誰だ。

 帰国以来、台風大雨報道いがいの地上波、新聞のニュースが以上の通り。
 世界が狭すぎる。オリンピックの開会式担当にきまった野村萬斎の「テーマは鎮魂と再生」、えっ、それは国内のハナシで、世界のテーマにはならないだろう。議員宿舎の空き部屋で、赤坂亭と称して自民党の宴会をやるようなものだ。すべてが小さい。
 カンヌの出品作が「万引き家族」、なんだかイヤーな気になる。 
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2018年07月30日

クレージーホースが危ない

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 21世紀になってからの新旧交代、技術刷新、世代交代は目まぐるしく進んでいる。芸能のジャンルでも、次々と新しい顔、新しい表現が登場し目まぐるしいばかりだ。

 かってかかわっていたレビューの世界もまた新しい波に見舞われている。
 第二次世界大戦後、レビューの全盛期があった。東京では有楽町駅前に日本劇場、日比谷の東京宝塚劇場、そして浅草の国際劇場、ときに帝国劇場、江東劇場、新宿コマ劇場など加わって、レビューの華を競っていた。
 劇場だけでなくレビューはあちこちのグランド・キャバレーでも上演されていた。銀座のミマツ、白馬車、クラウン、ショーボート、あるいは赤坂のミカド、紅馬車、デビ夫人の働いていたニューラテンコーターなど、みな夜のクライマックスはショウ・タイムだった。

 その頃の世界のレビューは、ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージックホールを頂点に、西はラスベガスのショウ・ビジネス、東はパリのムーラン・ルージュ、リドをはじめとするレビュウ、が燦然と絢を競っていた。

 それらのレビューが衰微の道をたどった最大の理由は、テレビの普及とジャンボジェットによる大量輸送が原因になったと考えられる。ジャンボジェットの普及はそれまで憧れだった海外に自由に行けるようになり、レビュウ舞台で繰り広げられるラテンやスパニッシュやフラメンコより、ずっとリアリティのある現実にふれることにより、舞台の虚構に観客はあきてしまった。そしてテレビのカラー化により、さらに現実よりキレイな景色がみられるようになった。 もはやレビュー劇場の役割は終わってしまったのだ。

 それでもパリとラスベガスには、いくつかのレビュ―劇場が頑張っている。
 各ホテルごとに劇場のあるラスベガスは、ディナーショーという形式でショーを上演してきたが、シルク・ド・ソレイユの登場以来、より観客の入るグランドシアターに切り替え、人手と厨房のいるディナー・ショーは閉鎖、スポーツ・カジノとシルク・ド・ソレイユにほとんどが変わってしまった。
 パリでもリドとムーランが観光客専門のレビューに変わり、かってイギリス娘とフランス娘がきそっていた舞台の熱気は何処かえいってしまった。辛うじてダンサーの魅力で人気を呼んでいたクレージーホースも、最近は照明や映像にひきまわされ、踊り子それぞれの魅力は消滅しかかっている。
 大人の魅力にみちたクレージーホースには、なんとか踏みとどまって欲しいと願うばかりだ。

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2018年07月25日

八重歯のシンデレラ・星由里子への追慕

八重歯のシンデレラ・星由里子への追慕

 ムーランルージュの演出で渡仏するまえ、東宝から凄い新人がでる、という噂をきいた。東宝ミス・シンデレラ娘コンテストで優勝したという。なんでも神田鍛冶町の乾物屋の娘で、5人姉妹の末娘ということだった。
 噂の娘は1959年に「星由里子」と名乗り、映画「すずかけの散歩道」で華々しくデビューした。
その頃渡仏準備に追われゆっくりと映画を見る間もなく、リハーサルの合間に抜け出し半分みて帰ってきたので、ズット奥歯になにかがはさまったような感じだった。
 彼女の品のいい明るいイメージは、あの頃の東宝カラーにぴったりで、クセのない庶民的な美しさで人気を集めた。

 帰国後、ふとしたことから彼女との縁ができた。
 60分枠のドラマで、東宝制作の枠があった。そのドラマの演出に擬せられたのだ。台本とキャスティングは東宝のプロデューサーが担当し、局は演出と営業を分担するシステムだった。
 配役の顔寄せではじめて噂のシンデレラに会った。主演にもかかわらずいちばん早くリハーサル場に入り、こちらが行くと立ち上がり小走りで側まできて、「おはようございます。星由里子です。」と挨拶された。さすが東宝の秘蔵っ子だけあって、しっかりと教育されてきたといった印象だった。台本もしっかりと読み込んできて、役の解釈も過不足なく演じてくれた。わがままで周りが困惑するスターもいるなかで、彼女は実に控えめで真面目に芝居をしてくれた。主演でも自己主張が強すぎると、まわりの役者たちとの和がたもてない、クセのない素直さには、大変助けられた。

 その頃、六本木に役者衆の集まる寿司やがあった。仕事の終わったスターたちが、三々五々集まってくる。美空ひばりも江利チエミもカウンターで寿司をつまんでいた。その寿司やの親方から「彼女が会いたいと言っている」という伝言があった。電撃結婚といわれ初めてのオメデタがわずか3か月で破れ、傷心のときだった。
 結婚相手への不満はひとこともいわず、映画の話に花が咲いた。ヨーロッパ映画のはなし、ハリウッド映画のはなし、明るく眼をキラキラさせて時を忘れた。

……京都で静かに暮らしているときいていたが、訃報はあまりにも突然だった。
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2018年07月23日

魔性の女・朝丘雪路

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 滞仏中、いくつかの訃報に接した。
テレビ朝日(当時のNET)の始まった頃、音楽番組の演出にも多々携わった。
 10代の視聴者には、ワタナベ・プロのタレントが人気があった。ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、布施明、小柳ルミ子、梓みちよなどが中心だった。
 20代になると男ではダークダックス、ボニージャックスなどが人気があり、女性歌手では水谷良重(いまの水谷八重子)、中原美沙緒、そして朝丘雪路だった。
 音楽の特集番組ではこの女性3人組を軸に構成することが、多かった。水谷良重は歌い手のなかでは、群を抜いてプロポーションにすぐれ、衣裳も体の線に忠実なマーメード・ラインのイブニングをきていた。大胆にだした背中にスタジオ・カメラマンは息をのんで、焦点をあわせていた。中原美沙緒は、伯父の中原淳一が衣裳デザインをしていたので、もっぱらフレアな可愛い路線だった。
 ……そして朝丘雪路、いつも彼女をめぐってトラブルが起きた。

 あの頃の音楽番組はまず音楽録音をして、段取りをして、本番になるという手のかかる制作工程だった。
当然のように衣裳の打ち合わせも事前にする。本番のドレスがかぶるといけないので、歌手3人を交えてドレスの打合せをする。
私は黒にするわ。私はブルー、私は赤と、それぞれのカラーも決まって、演出もほっとするのだが、当日思いがけないトラブルが発生する。

 歌手のひとりに呼ばれて楽屋にいってみると、泣いている。ユキエちゃん(当時朝丘雪路はユキエと自他ともに呼んでいた) に衣裳をとられたというのだ。昨日衣裳の色について順番をきめていたのに、本番前になって私の色の衣裳を着るというのだ。
 歌手同志の意地の張り合いはすさまじく、特にそうしたことでいつも台風の眼になったのが、朝丘雪路だった。
彼女のあとが出番の歌手は何時意地悪されてもいいように余分に衣裳を持ち込んでいた。

 料亭の女将の妾腹に生まれた彼女は異常なまでに、「パパ伊東深水」にこだわり、後に舞踊家になっても「深水流」を名乗ったほどだった。
リハに少しでも遅れてくると、いきなり演出の手を豊満な胸にもっていき、「ほらドキドキしているでしょ、ユキエ一生懸命走ってきたの。ごめんなさーい」
 身についた魔性とでもいうべきか。生涯電車の切符は買えなかったといわれるが、どこか無理を重ねた女が見え隠れした。コンプレックスと意地と見栄に疲れた一生だったと思っている。                  合掌
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2018年07月22日

アールヌーボーとアールデコ、ふたつのMUSEUM

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 パリ16区のギマールの建築に心惹かれ、アベス駅の見事な造形を横目にパン屋へ通っていた身としては、いつかブリッセルのアールヌーボー建築と対面したいと思っていた。

 ミスター・トム・ウィルソンはなんの前触れもなく、2日目の午後これから美術館に行こうと、言い出し、連れていかれたのが 世界遺産になっている「オルタ・ミュージアム」だった。
 アールヌーボーの父をいわれてるヴィクトール・オルタの自宅兼アトリエ、そこにはヴィクトール・オルタのアール・ヌーボーに対する情熱と美意識がぎっしりとつまっていた。タイル、石のモザイク、ステンドグラス、家具、建物の内装、ドア、階段、外装まですべてにアールヌーボーという新しい芸術運動に対する妥協のない造型が躍っている。ガウディのカーサなどよりもはるかに緻密な繊細さがそこにあった。エリック・サティの使っていたピアノなども置かれ、ああ今ここに居る、アールヌーボー建築発祥の地なんだという感動に包まれた。

 3日目のブリュッセル、ミスター・トムは、もうひとつの美術館にいこう、という。
 昨日とは打って変わったアールデコ様式のミュージアムだった。「ダヴット・アリス・ヴァンビューレン・ミュージアム」
手仕事の頂点に登りつめたアールヌーボーに対して、明日からの量産工業時代を予見して、コンパスと定規による新しい芸術運動を起こした気迫にみなぎったアールデコ建築だった。

 昨日のオルタ・ミュージアムにしても今日のダヴット・アリス・ヴァンビューレン・ミュージアムにしもいずれも個人の邸宅なので、そんなに広くない。ゆっくりと建物訪問しながら、作家の世界観について美意識について考えることが出来る。ほどほどの大きさのなかに、美術史上の近代における大きな課題がある、とても好都合なふたつのミュージアムだった。
 ブラッセルはまだまだ奥深いと想わせられた今回の旅だった。
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2018年07月21日

キャビアとブリッセルの森と

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 フランスのお金持ちはみんなベルギーへ引っ越す。
ルイビィトンのオーナーも、ルノーのプレジデントも、そして友人のトム・ウィルソンも、みなベルギーへ引っ越した。欧州連合の首都であり、EUの首都だから、そんな理由ではリッチ層はうごかない。パリからは電車で一時間ちょっとだから、クルマでかよっても通勤圏内なのだ。
 理由はひとつ、節税のためと、ベルギーの首都ブリッセルは、世界遺産としての美観と自然に恵まれている。首都の中心部から10分も走ると、自然遺産となったソワーニュの森、カンブルの森が何処までも続く。
 その森の中に富豪たちの家が点々とある。ロスアンゼルスの郊外、ビバリーヒルズの高級住宅街と似ている。どの家も1000坪以上の敷地を持ち、それぞれ個性的な住まいに暮らしている。

 ノイハウス、ゴディバ、ピェール・マルコニーニ、ヴィタメール、レオニダス、ガレ など名だたるチョコレート・メーカーはみなベルギーというのも不思議だ。ヴィクトルユーゴーが世界一美しい広場だと感嘆したブリッセルのグラン・プラスには、市庁舎をはじめ、王の家、楽器博物館、ビール博物館、星の家には触れると幸せがついてくるセルクラースの像などあるが、あいだにある小さな館は、ほとんどチョコレート・ショップと徹底している。

 ウィルソン家では、初日からトムさんがモスクワから携えてきてくれたキャビアのご馳走攻めにあった。
キャビアは革命50年の年、当時のソ連から招かれ、アエロフロウトの機上で山盛りのキャビアを賞味して以来、今回のブリッセル行で二番目のキャビア攻めだった。
 クリスタルのコンポートに山盛りのキャビア、直径7センチほどのいっぱいのブリニと、薄くカットした食パンの6センチ位のトースト、たまのホテルのパーティに登場するキャビアとはまるで違って、毎日ガーデン・ハウスのテーブルにはキャビアが置かれていた。至福のキャビアがいつでも食べ放題という心尽くし、3日間のウィルソン家滞在ですっかり英気をとりもどした。

 オードリー・ヘプバーンも、ルネ・マグリットもみなこの地に生まれ育ったんだと、軽井沢のウグイスに似た鳥の声を聴きながらブリッセルの森とお別れした。
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2018年07月18日

月刊Hanadaの売れているジュンク堂

 月間Hanadaの売れているジュンク堂

 オペラからルーブルに向かう途中にピラミデというメトロの駅がある。
 その側にあのジュンク堂がある。週刊誌、月刊誌、話題の新刊にまじって漫画、劇画、文房具など一通りのものがおいてある。ユニークなのは最近のBENTOブームにあやかって、日本製のBENTO箱まで売っている。日本好きのパリジェンヌが、カワイイ、カワイイを連発しながらBENTO箱を買っていたりする。

 情報不足のストレスがたまると、ジュンク堂に出掛ける。
 平積みの週刊誌、月刊誌の前面にどうどうと並べられているのが「月刊Hanada」文芸春秋と肩をならべて頑張っている。
朝日と野党は総理に謝罪せよ/国民が安倍晋三を選ぶ理由/国民が呆れたメディアと野党の茶番劇……朝日の偏向報道のおかげで誤解に誤解をかさねてきた日本の実態を正すのは、今のところHanadaやWill位しかない。
 外国の友人に従軍慰安婦のことなど改めて質問されると、ここまで朝日の弊害がおよんでいるかと、暗澹たる気分になる。サッカーの応援のときだけ、ホッペタに国旗をかいてニワカ日本人となり、普段国家への忠実を誓わない日本人のなんと多いことか。我々世代は、海外にでると故郷のこと、東京のこと、日本のこと、話題にでるたびに大和民族の血が騒ぎ、愛国者になる。

 街を歩いていると、パリには本屋と果物屋がおおい。店先に果物をハコでつんでいる果物やはそこここにある。果物はスーパーで買わないで、近所の果物屋で買うというのが、フランス人のスタイルなのだろう。本屋それも古本屋が結構ある。日本では姿を消した古本屋があってマニアックな本を置いている。 古本屋のおやじには、結構日本贔屓が多いから、困った時の人頼みには重宝かもしれない。

 ニューヨークの紀伊国屋にくらべると、パリのジュンク堂は、どことなくオットリしている。
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2018年07月17日

鰻の野田岩と大坂なおみ

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 うなぎというのは、青汁よりもヴィタミン剤よりも、夏のスタミナ源として信用されてきた。
 だから立身出世もうなぎ登り、とうてい成し得ないことをうなぎの木登りと、古来いいなぞらえてきた。土用の丑の日にうなぎを食べるのも、お客さんがきたら、うな重を出前するのも、子供ごころにうれしかった。

 パリで少し疲れると、サントノーレ272番地の野田岩に脚を向ける。野田岩はパリに於ける唯一のウナギ料理専門店だからだ。体力を消耗した今年も「野田岩」を訪れた。
 今年はは全くウナギの稚魚が取れずいつもの年の100分の一にもとどかないと日本では報じられ、うなぎの値段もうなぎ登りと予想されていた。果たしてパリの鰻やは如何にと、心配しながら木戸を開けた。

 鰻の蒲焼き(鰻の重さは調理前の重さです)
 梅130gご飯付/16€  藤200gご飯付/18€  菊280gご飯付/22€ 楓320gご飯付/26€
 お弁当(鰻重、お新香、味噌汁)
 鰻重130g/23€ 鰻重200g/25€ 鰻重280g/29€ 鰻重320g/33€
その他 鰻寿司17€ 鰻巻き8€ お新香5€ 枝豆3.5€ もずくの酢の物10€ などもあった。
 値段は東京の鰻やに比べ、まあまあのような気がした。

 入ったところにいきなり10人程の予約済があり、その向こうならいいですよ、と通された。しめしめとばかり座って320gを頼んだのだが、
となりの予約席にとんでもない一向がやってきた。
 日本の選手のくせに日本語がしゃべれない。父はハイチ、母は根室の日米二重国籍のテニス選手。180センチの身長に薄黒い肉がしっかりついている。日本のテニス協会に所属していないにもかかわらず、オリンピック強化選手に指定されている近頃話題の「大坂なおみ」だった。
 だらしなく座り込んだ本人のまわりには、コーチの父親、付き添いの母、契約コーチ、アスレティック・トレーナー、コンディショニング・トレーナー、マネージャー、アシスタントとおぼしき一行がどやどやと座りこんで、一気に酸素が低下した。
 今のスポーツというのは、一人の素材にこんなに人間が寄生して成り立っている、という標本のような一行だった。
 それにしても黒人のスポイル・ヘアであるドレッド・ヘアにし、礼儀作法とは縁遠い「大坂なおみ」っていったい何物、っていう疑問がついてまわった。
posted by Kazuhiko Hoshino at 13:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月16日

鼠が喜んだパリの洪水

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 「地震、雷、火事、親爺」少年時代、悪ガキどもの怖いものベストフォーだった。
 其れが今では「地震、津波に大雨、洪水」親爺はどこかへ消えてしまった。親爺どもは、憲法改正反対、モリカケ追及、安倍おろしとまったく意味のない重箱のすみで一人遊びにふけっている。
 バリでも随分質問された。安倍首相はいったいイクラ貰ったの? いや一銭も貰ってないよ。なんでマスコミがさわでいるの。多分安倍さんが嫌いだから騒いでいる。へえ、日本って国は不思議だねぇ。

 このところパリでも洪水が起きている。セーヌ河の氾濫である。
 3年前の撮影行の折もセーヌの氾濫に直面した。シテ島の先端のアムール・パークも水没し、オルセー美術館もルーブルもみな休館となった。ならばと北のペール・ラシエーズの墓地へ行った処、あの広大な墓地までも水がでて閉鎖だった。

 今年のセーヌ河も異常に水位があがり、観光船や船で暮らすいわゆるペニッシュの人々は大変だった。水辺の遊歩道や岸壁が冠水したため、ペニッシュの人々は質素な桟橋をつくったり、岸からロープをつないで、日用品の輸送に使ったりしてしのいでいた。今年の冬は暖かくみな喜んでいたところ、2月大雨に見舞われ上流のダムが二つとも満杯になり、放流せざるをえなかった。普段水深2メートルほどのセーヌ河ガ6メートルになり、観光船はみな動けなくなった。3日目には水のひく日本と違って、セーヌが増水するとひくまでに最低でも3か月かかる。美術館のみならず、地下鉄のサンミッシェル駅、ソルボンヌ駅、アンバリッドなどみな閉鎖された。

 水が出ると、パリの街に鼠がふえる。約220万匹が暮らしている鼠たちが、下水道から出て、街中をうろつくというのだ。不愉快だし、鼠たちは腸チフス、しょうこう熱などの伝染病を連れて街中をうろつくので困りものだ、と嘆いている。くれぐれも鼠に注意、女のねずみはシアワセかもとウインクされた。

 セーヌ河に近いサンジェルマンのギャラリー街も湿度が上がり大変だった。急遽除湿器をいれたり、電気をつけっ放しにして湿度調整したり、地下室はあらかたクローズしていた。
 狭いセーヌ通りの地下には、セーヌのこぼれ水が濁流をつくっていたのだろう。
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2018年07月15日

こころ残りの サロン・ド・テ

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 さぁ今日は何処でお茶しようか、とベットから起き、顔を洗いながら考える。
 左岸には、かっての文学カフェやら、サルトルに愛されたカフェ、あるいは画家たちがたまりにしていたカフェは沢山あるのだが、優雅に女性と語らう時間を包み込んでくれるようなサロン・ド・テは少ない。

 東急文化村にもあるレ・ドゥ・マゴや、となりのサルトルが住んでいたカフェ・フロールも悪くはないが、いまいち落ち着かない。サロン・ド・テと書いてあっても、基本カフェなのだ。寝ぼけた顔で頼むショコラ・ショーは、なんとなく雑味が多く、ショコラに洗練味がない。

 そこで100メートルほど歩けば、LADUREE ラデュレのボナパルト店がある。
 ラデュレはデートにぴったりのシャンゼリゼー店やマドレーヌ店もあるが、このサンジェルマンにあるボナパルト店もなかなかに素敵だ。外観からはマカロンの専門店に見えるが、因みにマカロンはラデュレから始まったのだが、一階の奥はサロン・オリエンタル、二階はサロン・ブルーと名付けられたサンジェルマンの隠れサロンになっていて、美味しい紅茶とケーキを食べながらの、ブラインド・デートには絶好の舞台装置なのだ。

 フランス政府は何かにつけて、ルイ14世に仕えた名門マリアージュ家が創設したマリアージュフレールを推薦するが、あまり好きになれない。これ見よがしの紅茶の種類、そんなに沢山みせられても、それぞれの味かわからない。紅茶道具の展示にしても博物館にきたのではなく、美味しいお茶をのみにきたのだから、もっとゆったりと飲ませて欲しい。サロン・ド・テの役割をはみだして、マリアージュ家のデモンストレーションにつき合っているような気分になる。ギンザの店もそうだが、どことなくうっとおしいのだ。

 ショックだったのは、スクリーブのグランドフロアにあったアンテ・リュ・スクリーブが無くなっていたこと。
 リヨンのCHA YUANの葉を使い、贅沢な茶器で日替わりで飲ませてくれたあのサロン・ド・テが、経営合理化の名のもとに整理されていた。
一階のゆったりとしたサロン、らせん階段で登った二階のブック・サロンには空間の贅沢があった。仙台の代理店を通して取り寄せていたYUANの茶葉にも、会えなくなってしまうのかと不安がよぎった。

 エッフェル塔を望むトロカデロの「カレット」、フィガロ紙でフランス第一位となったエクレアを薦めてくれた美しい彼女はまだ働いているだろうか。タイトな黒いファションに身を包んだジェンヌ達の魅力と、ショコラ・ショーの美味さ抜群の「カレット」に足を運べなかったのが、心残りである。


posted by Kazuhiko Hoshino at 14:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月14日

頑張れ、パリのBENTO 十時や

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パリに一か月もいると、日本食に飢えてくる。
 沢山ある日本食レストランやラーメン屋でもいいが、もう少し日常的でなにげない頑張らない日本食が食べたくなる。そんな時、味方になってくれるのが、サンタンヌ通り46番地のBENTO屋だ。オペラ座を背にルーブルに向かって間もなく、スタバを左に入るとまもなく「十時や」の看板が見えてくる。
 その「十時や」こそが、飢えた日本人の味方なのだ。近頃では、BENTOの単語がフランス人にも普及し、昼飯どきには結構パリのOLたちが行列をつくっている。

 十時やのメニューは、日本のコンビニのメニューを超えている。
 唐揚げ弁当、天ぷら弁当、鮭弁当、コロッケ弁当、海老フライ弁当、豚カツ弁当、ハンバーグ弁当と勢ぞろいしているが、嬉しいのはそれぞれの弁当に客の好きな三つの総菜をサービスしてくれる。総菜は、卵焼き、わかめとキューリの酢の物、ひじき、きんぴら、筑前炊き、ポテサラ、など等、もちろん総菜だけでもうってくれるのだが、弁当に総菜3品のサービスというのが、飢えた食欲にズシンと響く。
 おにぎり、寿司もあり、テイクアウトのうどんプラス出汁も用意されている。奥にはイート・インのスペースもあり、そこで済ませば持ち帰る必要もなくなる。

 オペラ座ガルニエの気取った客のなかには、帰りに十時やで弁当を買って帰るという上客もいる。
 3年ほど前の撮影行では、アシスタントがいつも十時やの弁当を買ってきてくれた。本人はすぐ側にある ACE BENTO で焼き肉弁当を買ってきていた。ACE BENTO は韓国料理専門なのだが、BENTO がパリで市民権をえたので、韓国料理にもかかわらずわざわざBENTOと名乗っている。

 16区ギマールのアールヌーボー街にも、この十時やの姉妹店七菜やが店を出している。
 豪華なギマールのアパートに住むアラブやイギリスの金持ちにも、この日本のBENTOは愛されているのだ。中国人やベトナム人の経営する日本食レストランより、はるかに日本人のDNAが生きている十字やのBENTOであることは確かだ。
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2018年07月13日

パリのふたり・TSUMEとYUKI

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 パリで仕事をしている二人の若者……ふとしたことで知り合い、パリへ行くと必ず3人で食事をし歓談してきた。その年話題の店を彼女がチェックして、予約を入れてくれるのだ。遠い異国で夢をもって仕事に埋没している若者の姿は嬉しい。

 ある時彼女との会話のなかで、「壇蜜」という名前が登場した。当時日本では彗星のように現れた「壇蜜」が話題になっていた。いろいろな職業、英語教師、調理師、クラブホステス、遺体衛生保全士、と渡り歩き、グラビア・アイドルとして登場、長い黒髪と妖艶な雰囲気で男どもをノックアウトしていた。
 その壇蜜と昭和女子大で同窓だったというのだ。Yukiちゃんには壇蜜のような愛人ムードはまったくない。ひかえめでいつも真面目な顔をしている。フブサントノーレの超高級ホテル、マンダリン・オリエンタル・ホテルで最近まで働いていた。
 彼女との会話のなかで、「彼が信奉するKIYOSHI」が登場した。よもや想像もしなかったイシワタリ・キヨシの名前に驚いた。キヨシの全盛期はほとんど星野和彦が演出していた。世界のベストスリーと謳われたキヨシと星野和彦は不可分のアイコンなのだ
 Tsumeはパリにくる前、東京でキヨシの仕事を見、海外でのキヨシの活動を尊敬していたというのだ。彼はいまパリでコマーシャルのコォーディネートからファッション雑誌、あるいはコレクションの楽屋と、ヘアスタイル、メークアップの仕事で飛び回っている。
 そんなことから、YukiとTsumeと星野君との絆が深まった。

 「いまブロードウェイに来てます。ベルニサージュまでにはパリに戻ります。」そんな葉書がきたと思えば、南仏のラベンダーの種を送ってきたり、いまインドのなんやら療法を学びに来てます、と行動的の極みなのだ。
 今年は三人でクレージーホースも楽しんだし、奥田の懐石料理も行くことができた。

 今回のパリ個展では、この二人に本当に世話になった。
 ベルニサージュの接客から不便なタクシーの手配、あるいはフナックのレコード探し、プランタンの最新レストランまで、ブラッセルの行き返りには北駅のホームで荷物をうけてくれたり、ドゴール空港の別れではいつまでも手を振ってくれた。
 YukiとTSUMEの二人の友情には、いくら感謝しても感謝しきれない。
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2018年07月11日

ダリダのおっぱいに触ると幸せになれる。

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 「ダリダのおっぱいに触ると幸せになれる」という都市伝説がパリにある。
 したがってモンマルトルの丘のうえにあるダリダの胸像の胸は、ピカピカに光っている。善光寺おびんずる様の禿げ頭を思い出すほどの光り方、シアワセを求めてパリジャン、パリジェンヌが、ダリダのふたつの胸にそっと触れるのだ。
 ダリダの像は彼女が愛し、彼女が暮らしたモンマルトルの坂道をじっと見つめている。

 戦後1960年代、70年代の日本のポップス業界は、ダリダ一色だったことがある。
 バンビーノ、コメプリマ、ラストダンスは私に、チャオチャオ・バンビーノ、ビキニスタイルのお嬢さん、日曜は駄目よ、ベサメムーチョ、太陽に抱かれて、……つぎつぎとヒットソングを飛ばすダリダの曲にレコード会社も歌い手も飛びついた。
 越路吹雪、ザ・ピーナッツ、弘田三枝子、中原美沙緒、と当時の人気歌手がみなダリダの曲を唄った。

 イタリアからの移民の娘としてカイロに生まれたダリダは、21才にしてミス・エジプトに選ばれるほどの美貌に恵まれ、映画、レビュー、歌手と時代の頂点に登りつめたのだったが、私生活にはいつも不幸の影がつきまとっていた。彼女が心を許し愛した男は、みな自殺する、という不幸にみまわれた。一人ならず立て続けに3人の男が自殺した。
 舞台では華やかで底抜けに明るかったダリダのなにが、男たちを絶望に走らせたのか。こんなに愛して、心も富も捧げているのに、なぜ命を絶ってしまうの……度重なる不幸に耐えきれなくなった彼女は、「人生にもう耐えられない。私を許して。」と書き残し、大量の睡眠薬をのんで54才の生涯に幕を下ろした。

 モンマルトルの墓地には、彼女の等身大の裸像が光を放っている。ダリダの墓はピアフにも負けない、ゲンズブールにも負けない、彼女の輝ける生涯を物語っている。
 ダリダの一生をたどりながら、もう一度「ダリダのおっぱいに触って幸せになりたい。」
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2018年07月10日

ハカバからパサージュへの興味

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最近はパリへ行っても「お帰りなさい」といわれ、昔とはだいぶ付き合い方が変わってきた。
 初めてのパリでは、いきなりのモンマルトルだったのでせいぜいピガールの広場からサクレクールの丘、テルトルの広場、ルピックの露天市、そして丘のうえの風車巡りだったが、二回目のパリ辺りから、ガイド本に惑わされエッフェル塔に凱旋門、ルーブル宮からオルセー美術館と俗なパリとつきあってきた。

 年齢を重ねるとともに興味の対象が変わり、ある時はパリのあちこちにあるジャンヌ・ダルクの像を検証したり、16区のギマールのアールヌーボー建築だけを取材したり、ガルニエのオペラ座とバスティーユのオペラ座を往復したり、アベスのジュテームの壁にこだわったり、とマニアックなパリを楽しんできた。

 いまパリのストリート・ウォッチングでこっているのは、
 モンマルトル、モンパルナス、ペール・ラシェーズの三大墓地、そしてパッシーの墓地、……ビゼー、ベルリオーズ、ショパン、ドビッシーの生きざまや、ピアフ、ゲンズブール、モンタンの変わらない人気、突然ニジンスキーの牧神の午後が生々しくポーズしていたり、ダリダの死の直前のヌード、サルトルとボーヴォアールの愛のカタチなど、墓には歴史と人生が詰まっている。

 ベットー・カイエの丘のストリート・アート。ミスティツクの洒落たイラストから彫刻的なパロディまで街のあちこちにある。かってのパリ・コムューン発祥の聖地がアートの街になっている。

 面白ついでにいえば、やはりあちこちにあるパサージュを歩くのもたのしい。時代屋から本屋、カン違いした日本のデザイナーのパリ店、小さなホテル、サロン・ドゥ・テ、ジャンクな衣裳屋、ところによってはいまでも娼婦の館などあって、この町のヒトビトの世界観がつまっている。
 「パリの雨宿りはパサージュに限る」と信じている。
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2018年07月09日

サンマルコの大晦日から、サンジェルマンのベルニサージュへ

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 ヴェネチアの大運河に面し、眼のまえにサンタマリア大聖堂を望んで、「グリッティ・パレス・ラグジュアリー・ホテル」がある。
15世紀の貴族の館をそのままホテルにした超高級ホテルだ。
一生に一度は泊まってみたい世界の五つのホテルに数えられている。
 その年、マンマルコ広場でのニューイヤーを迎えたくて、たまたまそのホテルにいた。大晦日のサンマルコ広場は、祝いのシャンパンを一口飲んで、足元の石畳になげつけるので、ガラスの破片で広場は埋め尽くされる。名物の仮面とシャンパンの香りととガラスの破片のなかで、新しい歳の来迎を祝うのだ。

 そこに突然電話が掛かってきた。 
お隣フランスはニースのシャトーからだった。何十年も前に芝居を教えていた少女からだった。いまここにベガスのトコちゃんがいるけれど、星野さんの名前がでて、共通の知人であることが判ったので電話を掛けたというのだ。

 翌年5月、ニースの劇場でジャパン・ウイークのショウを演出していた僕の前に、振袖姿に大きな花束をかかえた混血の少女が現れた。電話の主の娘だった。電話の主はヨーロッパ随一の美術財団サザビー家の息子である建築家と結婚をし、ニースのシャトーで暮らしていた。
 ピカソの陶板が引き詰められたシャトーは、コーヒーメーカーのCMにも登場し、お城の葡萄畑には何人かの農夫が働いていた。

 爾来交流を重ね、霧のなかの北イタリア建築紀行、春の桂離宮、一力茶屋だったり、リヨンの美食行、白根草津の温泉めぐりと、歳月にふさわしい交友を重ねてきた。

 そして今年、パり個展のベルニサージュにうち揃ってきてくれた。
 ブラッセルからTOMとTOMMIE夫妻、ラスベガスからTOKO LEE夫人、ロンドンからMINDA Lonsdale夫人、サン・ジェルマンのギャラリーがひときわ明るく笑顔が満ちた。
 そしてミセス芦田の気使い、虎屋社長の心ずかいに感謝しながらのセーヌ通りの一夜だった。

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2018年07月08日

パリの日本食事情

パリの日本食事情 パリの日本食事情

 パリの日本食は、ニューヨークの日本食を遥かに越えている。残念ながら質というよりは、量でこえているのだ。
 オペラ・ガルニエからルーブルに向かう左側の裏道に入ると、まず日本食レストランの多さに驚かされる。半分はラーメン屋である。古典的なさっぽろ・ラーメンから、池袋・西新宿発祥の新興ラーメンまでそろっている。ひところ町中にあった中国人やベトナム人によるエセ・ラーメンはだいぶ淘汰された。
 九州に発する一風堂などが、あちこちに支店をだし、彼の地の食習慣にフイットするようメニューの工夫を重ねている。

 うどんも頑張っている。浪花の薄味を標ぼうする店から、さぬきや、喜心、国虎屋まで、うどんビストロがある。
 国虎屋では、かけうどん、月見うどん、納豆うどん、天ぷらうどんから、冷たいざるうどん、タヌキざるうどん、さらにご飯、丼物として牛丼、かつ丼、炊き込みご飯、いなり寿司までそろえて、うどんビストロの名声をえている
 蕎麦も真面目な蕎麦やがあってかなりの水準だ。サンジェルマンのカフェ・フロールとドウ・マゴの間をはいったところには「円」という名のそば・レストランがある。山梨で本格的な修行をつみ、いまでもその日の分を手打ちにしてだしている。客層もハイレベルなフランス人が多い。

 本格的な日本食では「奥田」にとどめを指す。もとは東京の銀座で人気の高かい店だが、ココロザシをもってバリに店をかまえた。寿司やと懐石料理だ。そのうえ魚がまずくては、良い日本食はできない、というので魚の卸もやっている。
 パリの超高級ファッション街アベニュー・モンターギュ近くに店を構え、財界やファッション業界のエリートを迎えてる。

 そうしたパリの日本食を支えているひとつに「山下農園」がある。東京、横浜生まれの山下朝史・尚美夫妻が経営する農園だ。パリから20分ほどの郊外にあるささやかな農園で、日本からの野菜の種にかぎって無農薬・有機で栽培している。
 言葉を換えれば、日本野菜のオートクチュール、パリの一流レストランに納入してよろこばれている。
 ここのカブは KABU de yamashita とフランス人シェフの間でもすっかり人気が定着している。
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2018年07月07日

フェルー通りの「酔いどれ船」

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パリ左岸にあるルクサンブルグ公園の元老院の近くにある「フェルー通り」、わずか200メートル程の小路だが、この小路について書かねばならない。車は一方通行しかできない狭い道だが、その東側の壁面はランボーの詩で覆われている。
 ランボー16才の時に、ベルレーヌのもとに持参した処女作である。「酔いどれ船」と題された12音節4行からなる100行の長編詩、それが 5メートル程の高さの塀、100メートルの長さに堂々と書かれている。これほどのスケールで詩が書かれている都市の風景は見たことがない。

 数年前、鈴木京香がこの壁のまえで撮影したことがある。肌を透かしたレース使いのワンピースを着ていた。彼女のボディ・ラインが美しく浮かんだ写真は、かなり蠱惑的な傑作だったが、彼女が、背景にある詩の意味を理解していたとは考えにくい表情をたたえていた。
 ランボーの傑作はただのファッションの小道具と化して、泣いているようにも見えた。

 3年ほど前、パリで女優をしている某女との撮影行でも、この壁のことが気になり探したのだが、情報が少ないとあっさり拒否されてしまった。今度のパリ行きでようやく巡り合えたランボーの壁詩には、感動的な出会いがあった。

 72日間の短命に終わったパリ・コミューンの運動はフランス人の魂に埋め込まれた歴史なのだが、17才のパリジェンヌが、日本人から初めて尋ねられた詩壁に喜んで連れて行ってくれた。彼女は毎年パリコミューンの記念日に、追い詰められたペール・ラシエーズの墓地と、このランボーの詩壁を訪れるという。歴史と向かい合う優しいパリジェンヌを通して、日本の若者たちのことを想わざるをえなかった。

 ランボーは16才にしてパリコミューンの挫折と人生の挫折について、都市文明への降伏について、この詩を書いた。目の前のカフェに座って詩壁と対峙していると、目の前にはいま人生に漕ぎ出そうとしているカップルから、生きることに疲れてしまった老夫婦まで次々と通り過ぎて金縛りに会ってしまうのだ。
 ベーゼの壁や、16区のアールヌーボー建築ギマールの作品から得られない人間の叫びが聴こえてくる。
 聡明な鈴木京香がもう一度このランボーの詩壁に立ったら、どんなポーズで写真をとったか、想像は無駄働きか。
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2018年07月04日

パリ個展を終えて

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日本政府公式Japanesque2018・Japan Moment星野和彦PARIS個展
無事終えて帰国しました。
まずもってお世話になった方々に感謝いたします。

 在フランス日本国大使館、美術評論家Mme.Odile LEFRANC(フランス文化通信省)、
MR.TOM WILSON & TOMMIE WILSON(サザビー美術財団創業家・建築家)、Mrs.TOKO LEE(ラスベガス・ショウプロデューサー夫人)、
ミセス芦田様(Jun ASHIDA)、山東英樹様(Jun ASHIDA社長)、黒川光博様(虎屋代表取締役)、市原淳子様(虎屋パリ代表)、大木務様(虎屋取締役)、小林隆様(ビーブレックス社長)、小林正美様(Paris et TOI編集代表)、小池晃代様(PARIS et TOI編集)、関根剛志様(フジ・ネットワークPARIS)、高梨浩志様(大日本印刷パリ社長)馬田広亘様(フォトグラファ・元朝日新聞)岩関禎子様(ギャラリー桜の木社長)、和泉良枝様(シャンソン歌手)、宮本ゆかり様、MR.Steve DASSAS(PAULE KA)、Ms.Midori MASUDA(シューズ・デザイナー)、Ms.Nozomi MISAWA(ピアニスト、プロフェッサー)、Mr&Ms TOMO & YUKI INOTSUME(ファション・コーディネーター)、小田光様(グラフィック・デザイナー)、福西園様(ファション・コンサルタント)、増田美春様、Mr.BREN(ユニクロ・フランス)、小田郁美様(シャネル刺繍デザイナー)、MR.Takumi YAMAMOTO(スーパーカー・デザイナー)、八田禅様(ステンドグラス作家)、菊田真奈様(フォトグラファー)、Sofia大志様(通訳)、近藤敦彦様(アートディレクター)、伊藤愛子様(シンガー)、吾妻徳穂様(吾妻流二代目宗家)、石寺真澄様、高山恒久様(ガーデン・デザイナー)、坪倉祥夫様(古典衣裳デザイナー)、坂本和子・京子様、奥村吉兵衛様(千家十職)、島田五郎・由美子様、奈須田一志様、妹尾桃子様、桑原久美子様、福井朝子様、武貞智子様、三村節子様、谷昌和・真理子様、武井久美子様、荻野惇・由美子様、  千宗旦・明子様(表千家)、  ………

 1960年のパリ・ムーランルージュに於ける演出から、今年のサン・ジェルマンGalerie ETIENNE de COUSANSにおける写真展で、パリとの58年に及ぶ交歓に区切りがついたような気がします。 永いあいだのパリの石だたみと光に感謝します。
 遠くラスベガスから、ロンドンから、モスクワから、ブラッセルから、ニューヨークから、東京、京都から駆けつけて下さった友人と、メディアの皆さまに心から感謝を捧げます。
posted by Kazuhiko Hoshino at 18:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする