
今日は「山の日」だ。
自然に親しみ、山の恩恵に感謝する記念日となっているが、現状ははなはだ疑わしい。山の日が制定された2016年には上高地と松本で、2017年には栃木の那須町で、そして今年は鳥取米子の大山町で、公式記念大会を開いている。
そもそも超党派110名の議員連盟によって制定推進が行われたのだが、中心になった丸川珠代や衛藤征士郎には山に関する知識や思想はあまり感じなかった。お盆休みと連携させた経済効果やら、観光推進ばかりに眼がむけられ、山岳国家であるこの国の信仰や歴史にはまったく関心をしめさなかった。
今年の大山における記念式典のプログラムを見てもその幼稚な内容にあきれる。
観光カリスマやら女優によるトークセッションで、山を語るにはおよそ不釣り合いなキャストになっている。霞が関は実施内容に深くかかわらず、どこかの代理店に丸投げでやっているであろうことが想像できる。大山という開山1300年に及ぶ山岳修行最古の山を会場に選びながら、何故そこに一山三院42坊が営まれているかについて全くふれられていない。
日本人にとって暮らしのよりどころであった山を語らないのだ。そこにある原始信仰こそが民族の財産であるし、現代の宗教をこえたアイデンティティなのだが、せっかく山の日を設けても、観光登山やスポーツ登山だけでは経済活動のための山にしかならない。
なぜ日本人は山を信仰してきたのか。なぜ日本人は山で修行してきたのか。そのあたりにはっきりとした命題をあたえてこその「山の日」ではないか。
現状の山の日では、災害の源流だったり、金儲けのための山の日におわってしまう。山の日に観光業者を集めて山を語るのでは、悲しい山の日だ。
戦後決められた「成人の日」「昭和の日」「みどりの日」「こどもの日」「海の日」「山の日」「敬老の日」等々、もう一度再検討して、記念日のそもそもを問いただすのも一案かと。