2018年10月26日

芦田 淳先生を悼む

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 その頃、中原淳一の名前は一世を風靡していた。
 今様にいう美のカリスマであり、戦後の荒廃した日本に初めて「美」の概念を、女性像を介して表現した画家だった。竹久夢二、蕗谷紅児の系列を継ぐ美人画の名手であり、同時に絵にファッションのイメージをもちこんだ戦後はじめてのイラストレーターでもあった。

 三越劇場で若草物語を上演することとなり、演出の立場から舞台美術と衣裳は中原淳一をおいて他にはないと練馬のアトリエに伺った。天井の高い北欧風なイメージのアトリエに圧倒されながら案内された椅子にすわると、真ん中のグランド・ピアノで発声をしていたのがシャンソン歌手の高英男であり、中二階の小窓からのぞいたのが姪の中原美沙緒であり、イーゼルに向かってむずかしい顔で木炭を走らせていたのが中原淳一先生だった。
 大きな裁断テーブルをはさんで舞台美術の打合せに入ると、音もなく何処からか現れて淳一先生の脇にひかえていたのが、若き日の芦田淳先生だった。中原淳一のむかしは芦田淳のむかしにとても似ていた。一瞬息子さんかと思った位で、いちばん有能な助手と紹介された。

 のちに独立され、東京会館でコレクションをされるようになった。そのとし岸田今日子をゲストに迎えるので演出をという依頼をうけた。
 岸田今日子の暗いだみ声がかならずしもファッションに会うか不安だったが、芦田先生のイメージのなかではすでに彼女の朗読が躍っていた。
 ところがこの時大変な事故が起きアンプが故障してしまった。音響マンは青くなり、いま至急機材を手配しますというが、なかなか機材がとどかない。開演時間はせまり、観客も満員になっても音響機材はとどかない。、芦田先生はひと言も発せずなりゆきをじっと見守っていた。なんとか機材はまにあったのだが、2000本以上のファッションショウ演出経験のなかで、唯一無二の大事故だった。

 テニスの好きな芦田先生は、軽井沢南原にテニスのための別荘をもっていたが、のちに千ヶ滝に移られ、さらに千ヶ滝に新築されて、南欧風な別荘を作られた。窓から庭のテントまでフランスから取り寄せて理想とするたたずまいの別荘だった。披露のときには藤舎名生を迎え、幽玄とダイナミズムのにほんの音でお客様を迎えた。料理もフレンチだけでなく、軽井沢らしくというので職人館の北沢正和さんにきていただいた。芦田淳というひとは、ヨーロツパとにほん、美術と音楽と歴史に幅広く興味をもち、クラス社会のライフスタイルに心してデザインをしてきた稀にみるデザイナーだった。

 同時代のお世話になった人間として、残念ながら先立たれた芦田先生の冥福をお祈りするしかない。


posted by Kazuhiko Hoshino at 15:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする