2020年08月05日

リモートを弾劾する

リモート芸人.jpg

 なにげなく朝のテレビを見ていて驚いた。
 女子アナが、「……それではリモートで生出演していただきます。東山紀之さんでーす。」
 ベテランの羽鳥真一はなにも言わない。いつも騒々しい社員の玉川某も黙っている。番宣で出てきたことは、社内スタッフはもとより視聴者もあらかた承知していて当たり前のようにみている。
 「リモートで生出演」そんな常識がまかり通っていることにあきれた。 リモートはあくまで遠隔地との中継出演であって、すくなくともスタジオには存在しない、ということを意味している。 生出演はスタジオに同時出演して、同じ空間に存在していることを意味する。それ故「リモートで生出演」などという放映形態はありえないのだ。 にもかかわらず番宣でどこか遠く、もしくはタレントの自宅からの中継を「生出演」などという言葉におきかえているとすれば、それは「詐欺」というべきだろう。

 そもそもコロナ悪疫騒動以来、「リモート勤務」「リモート授業」「リモート会議」「リモート飲み会」「リモート・ダンス」など、リモートが氾濫している。
 さも「リモート」こそが、「新しい生活様式」にふさわしい生活スタイルと発言する知事や、オバカ・タレントがいるが、リモートで間に合うのは、金儲けだけが目的の経済人やゲーム屋ぐらいのものだろう。教育や文化の側面で、リモート賛成などというのは人間を否定する堕落した意見であるといえる。

 人と人との触れあいから人格教育がはじまる。少人数の人格教育を標榜したのは母校成蹊学園だった。芸術社会学のゼミは、いつも数人で教授と膝を交えての受講だった。教授の知識だけではなく、共に美術館にいき、劇場に足を運んで、人柄までも身体に染み付いた。いまでもあれこそが最高の教育だったと信じている。
 200人、300人の階段教室で、マスで授業に励む早稲田や慶応の規模にはついていけなかった。テレワーク専門の予備校と変わることがない。人に触れることで人間は成長すると信じてきた。
 リモートやテレワークで間に合うのは所詮それだけのこと。経営者にとってはいつでも馘首できるし、画面を通した虚像としか対面していなければ、愛情もわかないだろう。人間がデジタルの下僕になったり、5Gの奴隷になってはいけないのだ。
 人間を棄ててA1にまかせるなんてことは僕にはできない。
posted by Kazuhiko Hoshino at 12:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする