
バラの花束は我々世代にとって青春のシンボルだった。
いつか大きなバラの花束を抱え、彼女のもとを訪れる時を夢見て日々をおくったものだ。だから映画のなかでも、舞台でも一本のバラに出会った時、その一本のバラに託した主人公の秘めた心も苦悩も類推して、ともに悩み、ともに喜ぶことができた。
近頃の若い女性はナマの花束を喜ばないと聞いた。
毎日、花の世話をし水を取り替えるのなど面倒だし、なによりも花瓶がない。花をくれるのなら、その後の面倒まですべてしてくれ、と言うのだ。
花を届けてくれた相手への心ずかいなどまったく存在しない。そこにあるのはわがままな自己都合と殺伐とした人生の風景だけだ。
かって「百万本のバラ」というロシア歌謡が流行ったことがあった。
グルジアの画家ニコ・ピロスマニが女優マルガリータに恋をし、家財すべてを売り払って百万本のバラを捧げたという実話にもとずく恋歌だ。
〽 百万本のバラの花を あなたにあなたにあげる 窓から窓から見える広場を 真っ赤なバラでうめつくして……
こんな風景は、花束を喜ばない女性たちにとってなんの感興ももたらさないのだろう。面倒くさい歌だな位にしか思わない、そんな娘たちをつくった犯人は文部省?、日教組?、両親?、もしくは新しい生活様式? いずれにしても悲しい現実である。