2016年12月30日

小栗 旬とその仲間たち

小栗 旬とその仲間たち

 民間テレビが始まった頃、ドラマ創りはいくつかの言葉が必要だつた。
今どきのバイリンガルならぬ、日本語のなかの異なる表現をカバーしなければならなかった。中心に座る人々は映画界からやってきた。新派、歌舞伎からのキャストもいた。そして新劇畑からの俳優がいた。それぞれに通用する言葉が異なる。 それらの俳優をひとつにまとめ、作品づくりをするのだから、演出はその言葉を使い分けねばならなかった。

 ハリウツド風の外来語で説明すれば、映画俳優は素直に納得した。歌舞伎役者は伝統的な呼吸法で台詞の殷について説明すれば理解してくれた。新劇人にはスタニスラフスキー・システムをふりかざしての演出が有効だった。テレビは生まれてから日も浅く、商業化の波に呑み込まれて演技論どころではなかった。とりあえず周辺に転がっている演技論をモザイクし、映像論でコーティングすればよかったのだ。

 それでも厄介なのは新劇俳優たちだった。俳優座の演技研究所からはいくつかの劇団が生まれた。同人会、新人会、三期会、仲間 それぞれに違いがあり、表現法も微妙に違う。森繁久彌にはなんの説明もいらなかったが、新人会の若手には百万遍の言葉を費やさなければならなかった。つまり新劇出身は面倒くさい役者だったのだ。

 いま面倒臭がられているのは、織田裕二とそのグループ、人気を勘違いしてテレビのシステムを忘れていた。
さらにその後を追っているのが、小栗組といわれる小栗旬、生田斗真、山田孝之らといわれている。三茶、三宿、中目黒あたりのバーや居酒屋で夜な夜な演技論をたたかわし、作品にも口を挟むというので、スタッフから煙たがられている。 議論好き大いに結構、血の気の多いのも結構だが、スタッフから面倒くさがられると仕事場がどんどん少さくなる。
 気がつくと「あの人は今?」の状態になるので、折角の素材がもつたいない。心して徒党は組まれるが良い。
posted by Kazuhiko Hoshino at 16:56| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
つい先日関係者さんから「星野源」さんの話を聞いていたので…
ファンの見たいものが見られる世の中は程遠そうですね。
Posted by ふくだ かよ at 2016年12月30日 20:00
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