2018年04月22日

スタス・レビュウ 春の踊り

2018_spring_f.png

 スタスRevue「春のおどり」を見た。
高城、明石、銀の努力がみのって連日満員だったそうだ。観客の立場からみると、こなれてきたというべきか、不安を抱かずに舞台と対峙できる、そんな楽しみな舞台になってきた。かっての贔屓や我々スタッフの眼からばかりではいけないと思い、この春大学を卒業した混血の少女とともに浅草に足を向けた。

 かって国際劇場という東洋一の劇場を根城に活動していた松竹歌劇団SKDがなぜ解散にいたったのか、その原因に思いは飛んだ。
春の踊り、夏の踊り、秋の踊り、東京踊りという、間口の広い絢爛豪華のレビュウが恒常化した結果、観客に飽きられ、少しずつ衰退の道をたどったような気がする。
 総じて舞台作品は間口を広げれば広げるほど起爆力を失う。狭いテーマの設定こそが、メディアも注目するし、観客の心をつかむ。レビューを愛する最後のSKDメンバーが、ここまで努力を重ね、小さいながらもかってのラスベガスのラウンジ・ショウに負けない成果をあげてきたのは敬意を表するが、同時にかってのSKD失敗の轍を踏まねばいいが、の不安が横切る。

 本来レビュウの組み立ては、バレエを始めとする古典舞踊から、世界の民族舞踊、現代のモダンダンスやポップにいたるあらゆるジャンルを包み込んで上演されてきた。世界が未知の好奇心で充たされていた時代にはそれで充分だったが、現代のように世界は狭くなり、誰でもがブロードウェイを覗き、アフリカの果てまでいけるようになった今、衣裳の再現や背景考証では満足しなくなった。
 ダンサーの魅力、音楽の楽しみ、すべての美意識が観客を超えなければ、お金を払って観に行こうと思わない。

 そうした視点から、伝統を残しながらも、常にテーマの集約がされなければ退屈のそしりを受けてしまう。それが国際劇場失敗の元である春、夏、秋のおどりでは少しばかり視点が甘くないだろうか。ウェルメードな作品の落し穴なのだ。
 今回のステージでも折角タップやチャールストンを取り上げていたが、意味もなくただそのステップをなぞるのではなく、徹底的に「対話」をすればモット盛り上がって楽しかったのではないか。男と女、スターと群衆、ラインダンスでも対話の設定は可能だろう。
 テーマへの考え方と全体の構成に、どう答えていくかがスタスRevueの明日をきめるだろう。
posted by Kazuhiko Hoshino at 13:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: