2018年04月25日

地上波のソフト・ハードを自由化

地上波のソフト・ハードを自由化

 放送の自由化について、内閣府と民放が激しく対立している。
 政府は電波を広く自由化して間口を広げようとしている。悪いことではない。メディアの間口を広げることで、より言論が活発になり、一部地上波による魔女裁判のような悪癖がなくなる。とくに巨大特権に守られた極左的な発言は、ずいぶん薄まるだろう。
 政治経済を監視しなければならないメディアの役割を勘違いした、一部コメンテーターの暴論愚論は視聴者をあきれさせ、テレビを見ないという若い階層をつくりだした。ネットがすべてという人々だ。地上波の老人層とネットの若者層には越えがたい堀が出来てしまった。

 放送制度の見直しのなかで、もうひとつの論点は番組制作と放送の分離論である。民放はあれこれと理屈をつけて反対している。要は既得権益の擁護である。いちど手にいれた権利を放したくないのは人間のつねだが、10年の放送法改正時から各局とも意識の変化はなく、一致して分離反対を掲げている。

 が財政面の効率化を図るため、番組制作の多くは下請け会社に分離している、という現実がある。
 例えばテレビ朝日の例をみても、ヒットしているミステリー物の多くは局制作ではなく、東映製作の番組である。放送と番組制作が分離されれば、東映はより高く買ってくれる局に乗り換えるだろう。
 そこを縛っているのが系列という魔物なのだ。新聞と局と制作会社が結託して、テレビ地上波の特権を確保している。この国の地上波は世界の非常識なのだ。

 奇妙なことに、このソフト・ハード分離には、経営と組合が一致して反対している。放送の社会的効用や公共的価値に関する論点が欠如しているというのだが、どうみても既得権益の擁護としかうつらない。
 憲法改正反対にこりかたまり、モリカケ大事に電波を使い、安倍おろしに狂奔する現在の地上波は、国益に反しているとしかおもえない。放送と番組制作の分離論は、放送人がみずから墓穴を掘ったとしか思えないのだ。

posted by Kazuhiko Hoshino at 07:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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