2018年09月29日

新橋芸者と旦那衆のお手合わせ

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 花街は文化サロンだった。
 そこにくる人は政界、財界、官界、學界のトップクラスから、市井で成功を納めた商人やら、芸術家、芸人にいたるあらゆる階層の人々がいた。そうした人々が本業を離れて自己解放する場所が花街だった。花街には御茶屋、料亭、芸者衆の学びのための検番、置屋、髪結い、化粧、身の回りのための衣裳やさんから、装身具や、履物や、それらの世話をする男衆、小唄、長唄のお師匠さん、踊りの稽古場、さらに花街名物のお土産屋さんまで街中にあって、いちだんの洗練された趣味と雰囲気にまみえているのが花街の特徴だった。
 花街をみれば、その町の民度、文化のレベルが計れるのだ。

 大阪には、曽根崎新地いわゆる北新地、南地五花街、新町、堀江と多くの花街が、秀吉由来の城下町と最大の商都を支えてきた。京都では、北の上七軒、八坂の祇園、祇園東、鴨川の宮川町、そして先斗町とそれぞれの特徴ある花街が1000年の都の顔になってきた。
 東京も、新橋、赤坂を筆頭に柳橋、神楽坂、浅草、向島とあったが、いまは新橋、向島あたりが頑張っているのみでほかの花街はだいぶパワーが堕ちてしまった。
 全国の温泉場にある花街もかっての勢いはなく、そこにいる芸者衆も、半分以上は芸よりもレジャー酌婦になってしまっている。

 そうした花街の歴史にとってもっとも不幸だったのは、第二次世界大戦だった。
 敗戦国の日本はマッカーサー司令部によって、天皇を中心にした国家観から忠孝の精神文化も骨抜きにされ、伝統芸能から修身教育まで禁止され、奨励されたのはスポーツ、芸能、セックスというまさに植民地政策そのものだった。
 尻馬にのって、ホテル万歳料亭反対の政治をしたのが、細川内閣だった。政治家の集いはすべてホテルが良しと、変な方針を打ち出し、伝統のつまった料亭を否定した。これによって赤坂は衰退し、神楽坂も坂道を転げるがごとくに変わってしまった。細川さんはみずからが育てられた文化土壌を忘れたバカ殿といわれても仕方あるまい。

 新橋もずいぶん少なくなったが、東京を代表する花街としてがんばっている。祇園都をどりの一か月興行に対して、新橋東おどりはわずか一週間だが、銀座の旦那衆と相対での「くらま会」など、今年も盛大に新橋演舞場に幕を開けた。
 玄人の芸者と素人の旦那衆が一年に一度のお手合わせ、花街は本来地元の旦那衆あってのもので、地元と解離してしまっては意味もなく、旦那衆の幅広い芸に応じてこその舞台である。長唄、常磐津、河東節、一中節、小唄、端唄、哥澤、尺八、と邦楽の歴史総見のような銀座の旦那の芸に、立役として花を添える新橋の芸者衆も随分勉強になったことだろう。 いずれはからす天狗達の稔りも楽しみである。
posted by Kazuhiko Hoshino at 13:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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