
新元号「令和」の発布から、天皇譲位の式、そして天皇即位の儀式、そして令和最初の一般参賀、この一か月有余のセレモニーは安倍晋三首相にとって最大の出来事であったに違いない。この間左翼リベラルからの声はほとんど聞こえてこなかった。
11月の即位後初めての大嘗祭を経て一般参賀をすべきといった宮内庁の形式主義は、内閣府の強硬な意思によって木っ端微塵に砕かれ、安倍右翼政権の見事なまでの姿勢が貫徹された。
かってフランスの批評家ロラン・バルトによって「東京という巨大都市の中心、皇居は「虚」の空間である」といわれたが、その虚の空間に14万人という国民が粛々と集った。
原発の被災地から、地震の被害地から、療養の館から、10連休のさなかの一日、一瞬のために集った。そこでは参議院選挙のためにとか、なんでもかんでも安倍反対といった、左翼反日の声は見事に封殺された。
皇室という歴史的文化構造、日本国民のあいだに根差した象徴天皇制の強さをあらためて世界に見せつけたともいえるだろう。
あらためて考えてみれば、この国の文化はあらかた血脈によって維持されている。
能狂言に始まる歌舞伎の今日を支えているものは家族の血脈にほかならない。茶道、華道、香道といった環境芸術もしかり、家の血脈と文化の血脈が見事に綾をなして、日本固有の文化的表層を形作っている。
オペラやバレエといった輸入芸術にはそうした血脈の影はみあたらないが、それ故に固有の文化を創っているとはいいがたい。こうした血脈の文化は、この国の地政学的な条件から生まれたともいえるが、単一民族にして初めて可能な文化構造でもある。
皇室の男系男子による継承もこうした点から論じるべきだが、いまひとつ腰折れして全く関係ない女権意識から論じられていることは残念なことだ。