2020年01月14日

山田洋次の愚行・コラージュ寅さん

お帰り寅さん.jpg

 山田洋次監督が晩節を汚した。
 目下公開中の「男はつらいよ お帰り寅さん」のアイディアが、実は美術家横尾忠則のアイディアだったというのだ。
山田洋次はホホ被りの状態だが、横尾忠則が週刊誌まで巻き込んで怒っている。
 なにが日本を代表する監督だ。黒沢明とともに二大監督とは笑わせる。根本的にレベルが違う。黒沢に対して失礼だ、というのだ。
 その指摘には筆者も賛成だ。映画史上で語るべき創造性は山田洋次にはない。たまたま柴又・寅さん・だんごやという設定が興行作品として当たっただけで、映画としての文学性もなければ、映像における創造性もない、いわば映画のソープオペラのようなもので、強いて言えばだらだらと長くやったというだけの商業作品にすぎない。そんなことも判らない松竹のプロデューサーがお詫びに訪れたというので、横尾忠則の怒りがさらに増した。

 大晦日の紅白歌合戦には美空ひばりが出演した。美空ひばりはとっくにあの世にいっているから、そこにいるのは夢マボロシである。もっといえば死人が現れるのだからお化け屋敷である。その美空ひばりをみて感動したという話はない。たまにバカなタレントがお嬢がいると叫んだとか、実在しない芸人の再現に力をいたすより、明日のイメージ未来のうたのありようにエネルギーをそそいだほうが遥かに意味がある。
 歌舞伎でも獅童が一生懸命初音ミクと競演しているが、無駄な努力はさっさとやめ、本来の舞台に戻らないと時間の無駄なのだ。

 寅さんのコラージュに力をつくすのも芸術家の仕事ではない。そんなことは興行師のやることで、再び寅さんを登場させ金儲けができる喜びが目的なのは明らかだ。 その意味からも山田洋次は芸術家ではなく、商業監督なのだ。コラージュ本来の未来空間の映像に登場し強烈なプレゼンとなりうるなら、芸術的作業として貴重だが、柴又だんごやに登場して二番煎じの噺のなかで動くのではなんの意味もない。

 この国で芸術的映画監督といえるのは、黒沢明、溝口健二、市川崑、小津安次郎位のものだろう。

posted by Kazuhiko Hoshino at 13:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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