
祇園の名妓竹葉さんが亡くなった。
竹葉さんは古き良き時代の芸妓としての欣嗣と美しさを失わず、花街の内からも外からも慕われたふところの深い人だった。
戦後まもなく初めて祇園に誘われ、都をどりの舞台に舞う竹葉さんに接したのだが、あの頃の竹葉さんの美しさには息をのむ思いだった。彼女はただ美しいにとどまらず、お座敷での教養の深さにおいても群をぬいていた。
歌舞伎の名優たちも、南座の初日があくと、先ず竹葉さんの感想をききたがった。彼女の歯に衣着せぬ意見に素直にうなずいていたのは芸を知る者同士の共感があったからだろう。何代目のあの舞い方は間違っていると思う、何故ならあの主人公の生き方はこうだったから、あの解釈では一生が変わってしまいます。はんなりと厳しい批評をするのが竹葉さんだった。
松竹の前社長永山さんなども、顔見世の二日目には必ず京都にきて竹葉さんを座敷に招き、彼女の言葉を聞いてひとときをすごしていた。
お茶屋の女将さんたちも、舞妓をだすときはなるべくなら竹葉さんの妹分にしたい、と彼女に頼んでいた。厳しくしきたりやら、芸事を仕込んでくれるお姐さんとして竹葉さんは貴重な存在だった。人気の高い千鶴葉ちゃんも多満葉ちゃんも、みな竹葉さんの妹分として名妓に育っている。 お葬儀には藤十郎さんを始め東西の役者衆の送り花が揃った。
切通し進々堂の藤谷攻さんも亡くなった。祇園を裏からささえてきた功労者だ。祇園甲部の芸妓舞妓ひとりひとり好みを知って助けてくれていた。朝食からお夜食まで電話ひとつで功さんはとどけてくれた。厚焼き玉子のサンドが名物、玉子焼きに胡瓜のスライスが加わった「上玉子トースト」も美味かった。踊りの楽屋にはいつも進々堂さんのコーヒーが三十、五十と差し入れられていた。
正月に舞妓さんがご挨拶のお返しにいただく「毬」も攻さんの仕事だったが、毬をつくってくれる後継者もいなくなっては、祇園のお正月がさびしくなる。
竹葉さんという祇園町の表の顔と、藤谷功さんという祇園町の裏の顔、このふたつが同時に亡くなるとは、祇園甲部の悲しさが膨らむ。 合掌
その世界、その世界の名だたる人材が鬼籍に入るのは残念なことですが、その方々が育てた次なる人材が今後を担って下さるのでしょう。