2017年07月20日

鎌倉の夏花火

鎌倉の夏花火

 鎌倉の花火にご招待を受けた。
 長谷大仏前の華正樓3階のお部屋でお料理を楽しみ、その部屋から見える鎌倉の夏花火は如何というなんとも幸せなお誘いだつた。

 長谷には観音さまもいるし、大仏もおわす。が私のなかでは、川端康成の「山の音」が浮かぶ。
 初老にさしかかった男がふと耳にした「山の音」、死期の告知と恐れながら、息子の嫁に淡い恋心を抱く……
川端文学の最高傑作といわれた作品の舞台が長谷にある川端の家だった。その嫁はほっそりとしたからだ、顔が小さく、あごから首の線が娘らしく美しい女性だった。

 山の音に登場するその美しい女性にそっくりのゲストが同席していた。今夜の主役石寺真澄さんの姪御さんで慶應義塾4年のタニ・パトリシアさん。心配りのできるお嬢さんに久しぶりにあつた。ガーデン・デザイナーの高山さんにもいろいろと世話になった。ストレート・ヘアの續久仁子さんはヴァイオリニストの趣きがあり、ダジャレ砲を構えるプロデューサーの高樹さん、そして人生のたいはんを外国で暮らしてきた元大使夫人の田中薫さん、大人達の夏の夜の集まり、個性それぞれのお客様をもてなして下さった石寺さんには、感謝以外の言葉がみつからない。

 夏花火は、頑張りすぎず鎌倉に夏を告げるにふさわしい花火だつたが、スターマインとともに海に咲いた水中花火とのデュエットが楽しかった。 五山みな音駈けぬける梅雨明けの鎌倉だった。
 帰途、立ち寄ったドイツパンのベルグ・フェルドのサンドイッチが絶品だった。

                            …… 遠き日の 鎌倉の浜 夏花火

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2017年07月18日

市川に想うこと

市川に想うこと

 かつて市川は別荘地だつた。都心や下町の富豪にとって市川に別荘をもつというのは、ステータスだつた。
永井荷風も幸田露伴も北原白秋も、そして東山魁夷も市川に住んでいた。江戸川を超えると、上から読んで市川市、下から読んでも市川市についた。市川市の鳥はうぐいすだし、市川市の虫はスズムシ、ときいても情緒豊かな町が想像できる。市川には数多くの思い出がある。

 二十歳のとし、初めて映画をつくったのは市川だった。当時の毎日新聞が「この子らに光を」という特集連載で注目を浴びた。市川にある知的障害児施設八幡学園がその舞台、そこにいた「山下清」という知的障害児にスポットが当たった。
 山下清はふらりと旅にでて、何か月もたってふらりと学園に戻ってくる。旅の思い出を貼り絵にした。この貼り絵が素晴らしかった。その山下清の初めての学園脱走から、透明純粋な絵作りにいたる清の心の旅を映画化したのだ。清を演じたのは、若かりしころの唐十郎、本名大鶴義英だった。彼には清に通じる不器用な個性があった。文部省特選をえ全国の学校や図書館に200本のプリントが売れた。
 記憶は定かではないが、昭和26年か27年のことだった。ロケ隊は中山法華経寺の門前に宿をとり、たまに境内を散歩した。法華経寺の清冽な空気がいまでも印象にのこっている。そのとき万葉集にでてくる絶世の美少女手児奈姫誕生の地が市川ということを知った。のちに山下清を素材にした映画は、数多く作られた。

 市川発祥の山崎パン創立何周年かの総合イベントの演出をしたこともあった。戦後食糧難の時代、「粉を持って行けばパンにしてくれた」山崎誕生ものがたりは何度聞いて涙がでた。
 そして天才美容デザイナー石渡潔との60年にわたる関わりも、私の人生にとっては貴重な時だった。
 前衛美術家井上洋介も市川だったし、お嬢さんも健在だ。

 テレビ創生期に世話になった丸山一昭氏に京成市川に近い喫茶につれていかれた。昭和の匂いがしみこんだカウンター喫茶だった。かって仕事をしてきた老人たちにやすらぎを与えてくれていた。モガの雰囲気のママがひとり、狭い店に花をいけ、客との会話を楽しみながら、美味いサンドイッチを作ってくれた。スタバやドトールでは決して味わえない豊穣な時間が流れていた。プチ・ニコラと小さな看板がでていた。

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2017年07月16日

首相のお友達は犯罪なのか。

首相のお友達は犯罪なのか

 マスコミは本当に嘘つきだ。
 特に地上波テレビのひどさと朝日、毎日を中心とした加計学園問題報道にはほとほとあきれた。休会中予算委員会における加計問題集中審議の報道についてである。

 野党側証人前川喜平元事務次官の発言は忠実につたえたが、一方政府側証人として出席した前愛媛県知事加戸守行氏の発言は、全く伝えなかった。加戸前知事は前川氏と同じ文科省出身で事務次官としては前川氏の先輩に当たる。退官後、日本芸術文化振興会理事長を務めた後、1999年に愛媛県知事に当選、知事公舎を売却したり、森林環境税を導入したり、えひめフィルムコミッションを創設、3期12年名知事と言われた人物である。

 加計学園理事長と安倍総理が友達であったことを、まるで犯罪のごとくに誘導してきた野党とメディアについて、はっきりと否定し、愛媛県における獣医学部設置について12年間の苦労があったと発言した。いま産業用家畜の獣医が少なく、大変困っている。獣医学部設置について有名私立大学に数多く声をかけたが、すべてけんもほろろに断られ、ただひとつ加計学園だけが手をあげてくれた。
 以来、岩盤規制は固く10年間挑戦し続け、ようやく国家戦略特区で認められた、と経由を説明した。けだし当然のこの発言を無視して、わざとカットしいかにもの情報操作を加えたのが、朝日新聞、毎日新聞をはじめ民放テレビのニュース報道だった。

 前川前次官の役人天下り差配は棚に上げ、無理強いされたと、問題のないところに問題をつくり、なんとか安倍内閣倒閣に結びつけようという浅ましい企みがみえみえなのだ。官僚は政治に従うのが当たり前で、政治家に指示されて無理強いとは、あまりに厚かましい。面従腹背が私の主義などと平気で語る役人こそ、さっさと抹殺すべき官僚なのだ。

「友達でなにが悪い。官僚の岩盤規制に穴を開けたんだ。」と安倍首相は正面から野党とメディアを一喝すればいい。

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軽井沢の夏花火

軽井沢の夏花火

 昨夜は軽井沢・長倉の花火の夜だった。
 この小さな町に夏の花火が四つもある。バブルの頃は六つあったこともあった。

 天皇夫妻が必ず千ヶ滝の御用邸に避暑に訪れていた頃、その夜必ず千ヶ滝リンクで夏の花火が上がった。近所の老人がウルサイ、と警備の人をこずき倒したという噂が流れ、そのあくる年から千ヶ滝の花火はなくなった。

 南軽井沢レーク・ニュータウンの夏花火は三越の全盛期に打ち上げられていた。前の年のNHK紅白歌合戦に出場した歌手のソックリさんを呼んできて、レークの中之島で唄わせてから花火になる。その夜は湖畔の三越スーパーも、三越デパートも深夜まで営業して盛り上げていた。大会本部のテントには、岡田社長以下お歴々が陣取り、若い女優が色をそえた。いまではその片鱗もない。

 長倉の花火は我が家のすぐ下にある長倉神社の横を流れる湯川の河原から打ち上げられる。気象条件がうまくマッチした時には、わが家のサロンは花火見物の一等席になる。見下ろす森のうえにみごとに打上げ花火が華を咲かせる。スターマインも次々と丁度良いところに上がる。ガラス越しだが、近頃の蒸し暑い軽井沢では冷房完備の観覧席となってすこぶる好評である。たまに霧がたってまつたく見えない夏もある。遠くの友人を招こうと思うのだが、もし霧がたったら申し訳ないと招待できないまま歳月を重ねている。

 今年の長倉の花火にはいくつか見所があった。和火に似た渋いオレンジ一色で打ち上げられたスターマインがあった。県内では下諏訪で和火だけの夏花火が上がるが、なかなかそうした江戸花火を味わう機会はなく、ようやく軽井沢にもそうした趣味が現れたと嬉しかった。ゴールド一色の大スターマインもあった。花火といえば、彩りゆたかにパチンコ屋の開店祝いみたいなものから、もうそろそろ卒業したらいいだろう。
 花火にはその地域の民度が見て取れる。
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2017年07月15日

九州豪雨災害は人災である

九州豪雨災害は人災である

 道路790か所、橋20超被害、死者32名、九州北部豪雨被害について、もっぱら地球温暖化による異常気象が原因である、とメディアは報じている。テレビでは氾濫して土手を超え市街地に流れ込む泥だらけの流れや、橋桁に引っかかって間もなく橋ごと流される流木の山を映し、その後は自衛隊の災害出動でこのニュースは完結している。

 がそれで良いのだろうか。政治はながい間、二酸化炭素の削減のため、3兆円という莫大な予算を投入してきた。日本の二酸化炭素排出量はわずか3.9パーセント、アメリカや中国の参加しない二酸化炭素排出規制はまったく無意味であり、予算の無駄使いであるにもかかわらず。
 二酸化炭素にばかり予算をつかつてきたのは、反日メディアと環境学者、環境運動家、そして林野庁や環境庁の役人仕事だったのではないか。

 そのため治水はすみに追いやられ、僅か二酸化炭素対策の100分の一にも満たない予算でごまかしてきた。
 江戸時代までの日本の殿様はいかに治水、灌漑事業をやるかに意を注いできた。民を治めるのは水を治めることだった。水を治めれば、田畑を潤し、民家を守り、国土を豊潤にできた。
 最近では治水というのは、ダムを造ることのようにおもわれているが、実はそうではない。絶えず浚渫をして川の流量を増やす。あちこちに遊水地をつくり、旱魃や豪雨にそなえる。

 さらに重要なのは、適正な植林をするということだ。川上には落葉する樹林帯をつくり、山の保水力をあげる。手っ取り早く儲かる杉や桧ばかり植えた戦後の植林事業の失敗が、こんどの北九州災害なのだ。植林が間違わなければ、何十人もの犠牲者を出さずにすんだかもしれない。紙のリサイクル運動やワリバシ反対運動が結局森を死なせ、同胞を死においこんだのだ。
 アメダスを沢山つくることではなく、そのひまがあったら治水、灌漑に金を使ってほしい。

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2017年07月13日

KIYOSHI を悼む

KIYOSHI を悼む

 石渡潔という名前は戦後の日本にとって忘れてはいけない名前だとおもう。
 美容業界の人にとっては、あたりまえに知っている名前かもしれないが、日本のヘア・デザインを世界にしらしめ、この国のヘア・スタイルにインターナショナルな基準をつぎ込み、ファッションの一部として認知させたパイオニアなのだ。

 それまでの美容業界は女天下だった。美容師は女性のものと誰でもがあたりまえに信じていた。
 旧社会から生まれたスターが山野愛子であり、名和好子であり、、山崎伊久江だった。デザイナーというより美容業界のボスに近く、全国に信者がいた。
 しかし敗戦とともに、先進国ではヘアスタイルはデザインと認識され、美容院の人気は店ではなくヘアデザイナーの人気だということに気がつく。
 髪型がヘア・デザインに変わった。美容師はヘアデザイナーとよばれるようになった。

 1960年、日本の美容業界人が始めてヨーロッパを訪れたとき、私はムーランルージュのバックステージにいた。日本人が初めてパリで公演しているというので、皆で劇場にきてくださった。その時お会いしたのが大学をでて間もない紅顔の石渡潔だった。見て、学んで、創っていこうという意欲にみちた若い血がたぎつていた。 あの頃海外へ行く日本人は、みな志をもち、レジャーだの、暇つぶしでいく人はいなかった。

 帰国後、さむらい会という男性美容師合同の旗揚げ公演に演出を依頼された。当時のにほんには、男性美容師と言われる人は11人しかいなかった。その11人も不思議な人が多く、共産党からオカマまでと揶揄されていた。 そのなかでヘアデザイナーといわれるにふさわしい仕事をしていたのが石渡潔だった。キヨシは勉強こそがいちばんという真面目を絵にかいたようなデザイナーだった。
 さむらい会に始まった男性ヘアデザイナーは、着々と女性社会に切り込み、ようやく今日のような男性デザイナーの全盛期を迎えたのだ。

 昨日、キヨシのお別れ会があった。入り口にはキヨシが晩年描いた三美神のガラス絵が飾られていた。明子夫人は少し不自由そうに歩かれていたが、お嬢さんふたりがしっかりと付き添い、相変わらずの美しさをたたえていた。裕君、関口さん始め誠実なスタッフとお弟子さんに囲まれ、充実した人生だったと満足していられることだろう。      合掌


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2017年07月11日

スーパー・サラマンダーの国産化を

スーパー・サラマンダーの国産化を

 「サラマンダー」とは火の妖精のことだそうだ。
 小さなトカゲのようであり、小さなドラゴンのようでもある。ふだんは燃える炎や灼熱の溶岩に住んでいるというから恐ろしい。

 このサラマンダーに因んでつけられた名前が、レッド・サラマンダー。土砂や流木に寸断された道なき道を進むのに、これほど適した車はない。孤立無援の山奥の集落にとってこれほど有難い車はない。車というよりは戦車にちかい。火器を搭載していない戦車、それがレッド・サラマンダーなのだ。

 九州北部豪雨の山間部被災地で活躍したのがレツド・サラマンダー。流木と土石流をこえて救助活動に邁進した。一般車両が走ることのできない荒地、段差、瓦礫、に加え水深1.2メートルまでの池、湖も踏破する。
全長8.2メートル、幅2.2メートル、高さ2.6メートル、重さ12トン、積載人員10名、最大速度50キロ、乗越え段差60センチ、最大溝乗越え幅2メートル、製造メーカー ST エンジニアリング(シンガポール)、価格は1億1000万円、普通目にする40メートル級の梯子車が1億7000万円、第三世代90式戦車が8億円という価格から考えると決して高い値段ではない。
 現在、愛知県の岡崎消防本部に一台しかない。今回も岡崎から大分の日田市まで移動するのに二日間かかっている。この際、全都道府県に一台ずつ常備したら如何かと思う。

 シンガポールから輸入してもよし、日本の兵器製造技術のレベルからみても、比較的かんたんに作れるのではないか。KOMATSUあたりが本腰をいれて製造すれば、より高性能なスーパー・サラマンダーが、生まれるかもしれない。災害列島と言われるこの国にとって、こうした車両の必要性は益々増えていくのではなかろうか。
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2017年07月09日

手筒花火・神々との交歓

手筒花火・神々との交歓

 打上げ花火、仕掛け花火、洋火、和火、花火にもいろいろあるが、世界中どこを探しても日本にしかない花火がある。「手筒花火」という。
 発祥は豊橋の吉田神社とも、豊川の進雄神社ともいわれるが定かではない。愛知の東三河から、静岡遠州の西部にかけてあちこちの祭礼で奉納されている。

 手筒花火は直径2.30センチ、長さ1メートルほどの竹の筒に火薬を仕込み、人が抱えて着火する花火である。締め込みひとつの裸の男が、花火を抱えて奉納する。危険といえばこれほど危険な花火はない。身を清めた裸の男が神と交感し、1メートルの竹筒の火薬が燃え尽きるまで、火の粉を浴びながら最後まで花火を抱き続ける。

 私は10年程前、あの御嶽山で手筒花火に遭遇した。それは御嶽教の大祭の夜、あの多くの犠牲者を出した頂上近くの広場で豪壮な手筒花火の何本かが奉納された。夜の闇が迫った頃、それぞれの登山道を無言で松明を手に信者さんたちが登ってきた。それは涙をこらえることが出来ないほど、美しい行列だった。
 仮神殿での祈祷が終わった頃、花火に点火された。3000メートルの山頂に何本かの火柱がたった。その花火を抱いた男たちのなんと崇高な美しさにみちた光景だったことか。
 最後に花火の底が破裂して山々に衝撃音が響いた。手筒花火は無事に奉納された。ものいわぬ星空とともに神々の存在がはっきりと見えたような気がした。

 手筒花火は花火業者は作らない。花火を抱く男たちがそれぞれに工夫して火薬をつめる。自分のつくった花火を裸で抱いて神々に供える、だから彼らは少しも熱くないのだ。
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2017年07月08日

京の夏はお千度に始まる

京の夏はお千度に始まる

 軽井沢にもようやく暑い夏がきた。
 テレビでは盛んに今日は七夕まつり、園児たちが可愛い七夕飾りを作っています、と何十年変わらない子供報道を続けている。多分テレビの報道マンは、大人の七夕祭事をしらないのだろう。知ろうとしないのだろう。だから地上波のテレビばかり見ていると馬鹿になると言われるのだ。

 京都の夏は、祇園の芸舞妓たちの集り、みやび会お千度に始まる。
 今年は7月7日、祇園甲部の芸舞妓一同が、浴衣すがたに身をやつし、八坂神社にお参りする。集合時間は朝10時、それぞれに御茶屋や置屋からお姉さんとともに八坂さんに向かう。
 新調した今年の浴衣は白地に藍のひょーたんをあしらった柄、それに井上流の井菱の紋の白い帯をきりっと結んだ、昔ながらの浴衣姿がなんとも涼しい。
 ご本殿の脇には、祇園みやび会の幡が立てられたテントがしつらえてあるが、まずご本殿正面に向ってお参りし、時計回りに三回本殿を周る。お千度が歴史の時間とともにお三度になってしまったのだ。それを済ませ、ご本殿に登壇する。井上流家元が神官より御榊をいただき、一同打ち揃って拝礼をすます。祈るのは、芸の上達と無病息災と決まっている。この時ひそかにカレに思いをいたしたり、ゲームの勝運を祈ったものは、早晩祇園の廓から消えていく。
 お盃をいただき、東の楼門まえに集合して記念写真をとる。何十年ものあいだ、同じ石段に決められたようにならんで撮る写真、それが伝統というものだ。
 これで一旦はみやび会お千度は終わったかにみえるが、そうではない。芸舞妓一同、三々五々四条河原町の高島屋さんに向かう。高島屋でサンドイッチをいただく。アルコール抜きの精進落としのようなもの、高島屋さんのサンドイッチまでが祇園みやび会お千度である。

 お千度が終わると、それぞれのご贔屓筋や日頃お世話になっているお料理屋さんなどに今年の夏うちわをもってご挨拶に伺う。うちわには館の名と芸舞妓それぞれの名前が書かれている。いただいたうちわは客寄せの縁起物として玄関先や店先に飾るのが、都の習わしでもある。
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2017年07月07日

ポンコツ議員集団都民ファーストの会

ポンコツ議員集団都民ファーストの会

 55人の小池チルドレンがテレビ画面に映し出された。
 人間としての存在感、魅力がこれほど乏しい集団は近頃珍しい。情けなくなるほどに頼りない。誰ひとりとして生活感のある人間はいない。この人たちが東京都の舵取りをするなど、恐ろしい悲劇だし、滑稽極まりない喜劇だ。この人たちに勝てなかった自民党の元職の人たちはどんなに酷い人たちだったのか。
 小池都知事に「録音されて困るようなことは喋らないでください。」政治家の名が恥ずかしい。当選後初めての集まりが「勉強会」では、開いた口がふさがらない。もともと政策の無い人たちなのだ、職のないプータローの集まりが、都民ファーストの会だといわれても反論できまい。

 週刊誌には早速「小池チルドレン」という名のポンコツ議員一覧なるものが掲載された。
 まず「DV体質の本橋弘隆議員」すでに本会議の議席変更を巡って、事務局職員を怒鳴りつけ、職員を卒倒させたという実績を誇る。「遅刻常習の森愛議員」時間を守らないのが、この人の政策、議会では遅刻することを「森愛する」といっている。「元女子アナの龍円愛梨議員」アナウンス技術の稚拙さからさっさとお払い箱になった。同じくフジ・テレビの「入江伸子はオジ殺しの超ブランド体質」アストンマーチンを乗り回す。「茜ケ久保嘉代子議員は華僑向けの占い師。そして「斎藤礼伊奈議員は大麻擁護の運動員」等々、國会2年生議員といい勝負の危ない議員のオンパレードなのだ。
 こうした人々を当選させた責任は、都民以上に小池百合子都知事そのひとにある。

 この人々に東京という日本の玄関を預けて大丈夫なのだろうか。
 選挙中の一か月だけ都民ファーストの会代表に就任し、選挙がおわったらさっさと辞任して、都民ファーストの会の責任者をおりるという行為は何だったのだろう。
 そもそも二元代表制だからという説明は、もっともらしいが、それならばこの一年を通しての都知事の行動は許されるのか、ほんとうに困った東京都だ。

posted by Kazuhiko Hoshino at 21:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする