2018年08月06日

8月6日の新型爆弾

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 「敵、新型爆弾を広島に投下」
  中学二年の夏、初めて眼にした新聞の大見出し、8月8日の朝刊だった。 はじめシンガタの意味が判らなかった。爆弾の形はすでにいろいろの本や靖国神社の展示物から理解していたが、シンガタ爆弾といわれて、それがどんな形の爆弾か理解できなかった。ひょっとして丸い爆弾、それとも長い爆弾、それがよもや原子爆弾という想像もできない破壊力をもった爆弾だったとは、何日後かに報道管制が解かれてから眼にした言葉だった。

 8月6日、広島にウラニウム爆弾・リトルボーイ 投下
 8月9日、長崎にプルトニウム型原子爆弾・ファットマン投下
アメリカ軍は爆弾のおなかにヌードを描いたり、ペットネームをつけたり、不謹慎な兵隊と思っていたが、結局それだけ余裕のある軍隊だつた。

投下に至るまで、米軍は4.774キロのパンプキン爆弾で、原子爆弾の投下予備訓練を日本の30都市の上空で、49回も繰り返していた。さらにV600番台のB29が、テニアン島から日本まで頻繁に飛行していたにもかかわらず、日本軍情報部は特別任務機としてしか認識していなかった。 情報戦で日本は完全に破れていた。

 8月11日 防空総本部から発表「新型爆弾への心得」
横穴式防空壕が有効である。初期防火、火傷に注意。退避壕の入口はできるだけふさぐのが、よろしい。なお蛸壺型の防空壕でもいいが なるべく出入り口に板などを置いたほうがいい。(当時原爆に対する認識はこの程度だつた)

 8月10日、トルーマン大統領、これ以上の原爆投下を中止せよ。と命令をだす。

 ここでようやく軍司令部は報道管制をとき、広島の取材を許可した。東京の大新聞は被災地に殺到し、写真をとり、被災者をインタビューし、記事を本社に送った。そしてみずからも被爆し、多数犠牲者となった。

 新潟市はこの隙をついて、全市民に原爆疎開命令を発令、新潟市は9月半ばまで無人都市となった。嘘のような本当の話である。
 新型爆弾は、近未来の架空兵器として、少年科学雑誌の口絵を飾っていた。



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2018年08月05日

浅利慶太を検証する

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 浅利慶太は同世代の演劇人だった。
 彼が慶応演劇部にいた当時、予科の講師となった加藤道夫は、三島由紀夫や岸田國士らとともに「文学立体化運動の担い手」として世間から注目されていた。慶応の演劇大好き学生たちは、加藤道夫のアイコンのもとに集まっていた。浅利慶太もまたそのひとりだつた。

 加藤道夫はジロウドウとアヌイの世界に入り込み、「加藤道夫の神話」とも言われる演劇観を残している。
 「描写」を偏重してはならない。描写は実証的な客観的知性だけで出来るつまらないものだ。
 「表現」せよ。表現には強烈な主観的知性が働かなければならない。
 俳優が芸術家なら、詩人が内面に詩的世界をもっているように、役者もまた己の言葉と、ヴィジョンをもっていなければならない。

 浅利はこの加藤道夫の神話に強烈な示唆をうけ、劇団結成当時はかなり忠実にジロウドウ、アヌイの芝居を実践していた。が加藤が木下順二などの民族演劇論にインスパイアーし、日本の創作劇に舵をきったあたりから、全く違う方向に走り始めた。

 彼は「芝居で食べる」という商業演劇の魅力にはまってしまったのだ。
バラエティ誌上興行収入の上位にある作品に次々と手をだし、ミュージカル上演の先輩たる東宝をけちらし、商売一辺倒のミュージカルに手を染めた。電通と組み、仮設劇場をつぎつぎとつくり、ロングラン興行を打って利益をあげるというブロードウェイの下請けになった。その為、ミュージカルの後発国ながら確実に上演権を獲得するため、世界で一番高いローヤリティを払い、一時は四季って一体何者?あんなに高いローヤリティを払ってペイするか、とブロードウェイの裏話題になっていた。
 浅利慶太はまったく脚本、オリジナリティに関心はなく、いかに上演して観客動員をはかるか、という興行師として一流になった。

 浅利は国立劇場をミュージカル専門劇場にするべく、中曽根、石原慎太郎などに近かずき霞が関に日参していた時期もあったが、黛敏郎らの猛反対にあい失敗したこともあった。
 数班のチームを作り、同時多発的な興行システムも結局、俳優の三分の一ちかくが中国人となるに及んで、内部からも劇団のアイデンティティーを疑う超えがあがり、ブーメランのごとく彼に批判が集中した。
 彼を失った今、劇団四季のレパートリーはすべてディズニー・プロダクションの下請けとなっているが、この状態でいつまで興行をつづけるのか、残されたスタッフのエネルギーと知性にかかっている。
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2018年08月04日

阿波おどり商業化のむくい

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 阿波おどりがもめている。
 市長と観光協会と地元徳島新聞の利権争いのようにも見える。南内町の演舞場に人気が集中し、ほかの三つの演舞場の人気がいまいちなので、四つすべての演舞場に観客がいきわたる様に、今年から総踊りの連の配分をし直す。
 もはや阿波おどりは、夏の巨大な興行に成り下がってしまった。阿波おどり本来の目的は雲散霧消し、チケットが売れたか、売れないか、のみが話題になり、新聞社が取り仕切っても、ヤクザがとりしきっても、まったく変わりのない状態になってしまった。かえってヤクザが仕切ったほうが、赤字がどうの、黒字がどうの、がなくなって庶民の税金が狙われることもない。

 阿波おどりの始まりは徳島城のお城工事の完成祝いといわれるが、踊りの様式からいえば、それ以前の精霊おどり、御霊しずめの念仏踊りに原点があったことは明らかだ。盆踊りとして、帰ってきた新しい精霊を慰めるための踊りである。
 むかし徳島の郊外の田園風景のなかでみた阿波踊りは最高だった。観客のひとりもいない田圃の畔を、10人足らずの連がひたむきに踊っていく。祖霊を慰めるということは、こういうことなんだ。という魂の祈りが見えた。ライトもなく、マイクの喧騒もない阿波の念仏踊りとは、こういうことか、と感動した。
 おどりに観客はいらない。あの世の祖霊と、現世の子孫がいれば、それで充分成り立つまつりだ。
新聞社やら、観光業者やら、代理店やら、よってたかって商売にしようとする輩がいて、祭を堕落させている。

 信州にもいろいろな盆踊りがある。
 長野びんずる、飯田リンゴン、丸子ドドンコ、上田わっしょい、小諸ドカンショ、そして松本ぼんぼん等々……松本ぼんぼんにいたっては、それまでお城の周りの少女たちがささやかにやっていた盆の唄めぐりを横取りし、行政と財界が金のちからでイベント化してしまった。松本ぼんぼんという可愛らしい名前まで収奪し、盛大に市民祭松本ぼんぼんとしてやっている。

 軽井沢では宿場の盆行事としていろいろあったが、明治から大正にかけてのキリスト教牧師たちの来軽によって、弾圧されてしまった。キリスト教関係の神父や牧師たちの夏休みと、盆行事がぶつかったことで、日本人の伝統的習俗を失ってしまったのだ。
 あの頃の布教団はいまでは美化されているが、当時は決してそんなものではなく、日曜は安息日だから商店を開けるなとか、仏教催事はするなとか、暴力団のような一面をもっていた。

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2018年08月02日

夏はコハクの菓子が涼しき

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 酷暑にはいかにも涼しいお菓子が食べたくなる。
 一年中チョコレートやマカロンをたべているフランス人にはとうてい理解不能な和菓子の世界だ。東京でも近頃は、ゴディバだの、ピエール・マルコニーニなどとわめいて、スイーツに季節のある日本の和菓子を知らないギャルやら餓鬼がふえている。
 テレビで採りあげる夏菓子も、ガリガリ君やら井村屋の小豆バー、大騒ぎして一等賞は明治の北海道産小豆入りラクトアイス、これでは日本人の味覚はますます貧弱になるばかりだ。

 夏菓子の王座はなんといってもコハクに限る。
 琥珀糖は、寒天にクチナシの実またはウコンの粉をまぜ、砂糖を加えて煮詰め、さらに橙皮油やレモンを混ぜて冷やしかためてつくったもので、「たべる宝石」ともいわれている。
 京都の真面目なお菓子屋さんは、夏菓子といえば琥珀のお菓子を作っている。信州や軽井沢ではまず見当たらない。一年中ダイフクやら饅頭に頼って商いをしているが、ひとえに勉強が足りないといわれても仕方がない。

 琥珀羹では、末富さんの「水月(スイゲツ)」、水に映る光る月をイメージしている。すだれに包まれ、23センチで5千400円という値段から、お菓子の格が察しられる。琥珀の棹ものとしては高級の部類だ。
 陳列棚に並んだ菓子では満足しない人には嘯月さんの「琥珀羹」がある。大徳寺の側にあるこのみせには、お菓子の陳列ケースも棚もない。時間指定で予約が出来れば、お引き取りの時間に合わせてつくります、という和菓子のオートクチュールである。家元やお寺さんのしかるべきお客さまにしか対応しない。
 机の傍らにおいて楽しむには鍵善良房の「琥珀」がある。紫と水色と白の琥珀がサイコロになり、仕事中の糖分不足を補うにベストだ。
 勿論、和菓子界の巨星とらやさんにも「水の宿」とい夏の羊羹がある。涼し気な青さに水しずくがたった瞬間を季節の羊羹にしつらえ夏が躍っている。

 涼菓として友人に送り喜ばれるのは、堺町三条にある亀屋則克さんの「浜土産(ハマヅト)」、波の磯辺にとれた蛤に、琥珀と浜納豆の一粒を入れた夏限定のお菓子だが、添えられた桧葉と竹籠も嬉しく磯の潮騒が聴こえてくるような涼しいお菓子だ。心なしか年々蛤の小さくなるような気もして、自然の変化がお菓子のなかに感じられる。蛤をあけて空いた殻ですくって食べる趣向も楽しい。

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2018年08月01日

夏には夏のあきない

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 横丁に涼し気な風鈴の音が聴こえてくる。それも一つではなく、沢山の風鈴だ。ガラスの江戸風鈴を主役に、緑色に仕上げられた南部鉄の風鈴など、風鈴やさんが通り過ぎるたびごとに夏風が路地を抜けていくような気がした。
 ガラス風鈴には流水と金魚の絵が多かった。金魚もまた夏の暑さに涼をもたらしてくれるマジックな魚だった。夏祭りの夜店で、祖母にねだって手に入れた金魚はなによりのお宝だった。金魚やのおじさんは、いつもオマケの金魚をつけてくれた。ビニールの透明な袋のなかで泳ぐ金魚を大事にもちかえり、去年の金魚鉢に早く移してやらないと、金魚は弱ってしまう。縁日の夜は小走りの帰り道だった。

 行商の金魚やさんと風鈴やさんがたまたま家の前で出会い、路地にせりだした庭木の日陰で、ふたつの屋台が休憩をかねて揃った時などは、ひと夏いちばんのイベントだった。
 評判のお姉さんがムームー一枚でやってきたり、はだけた浴衣姿の三味線のお師匠さん、ランニングにショートパンツの下宿のお兄さんなど、思わぬ人々が集まってきた。誰かが持ち出した竹の縁台はすぐに満員御礼。親切な斜め向かいのおばさんが、到来ものだからと大きな西瓜を切ってもちこんでくれたり、いつからかラムネやの屋台まで加わって即席夏市の様をていした。その日の絵日記には何を描こうかと迷いに迷ったのだった。

 夏の行商には団扇やさんもあった。いろいろな絵の描かれた団扇を天秤棒の両側に見事に飾って売りに来た行商のおじさん。
 北斎の波間の富士をみたのは、団扇絵が初めてだったし、横山大観の霧にけぶる富士も、見事な金魚も、みな団扇絵で初お目見えだった。団扇やさんのすみには、必ずと言っていいほど「火の用心」と大きく書かれた渋団扇の何本かがならべられ、風流な夏団扇には見向きもせず、台所の竈炊きと内風呂の火起こしだけのために渋団扇を買い求める町内の女将さんもいた。それでも今時の宣伝一色のプラスチックの団扇よりも遥かにシアワセの風が吹いた。

 軽井沢の我が家では、祇園の芸舞妓が夏前にくばる名入りの団扇でとても重宝している。客寄せの縁起物である祇園団扇は、商家を営む友人にとても喜ばれ、わざわざ遠くから、芸舞妓の名入り団扇をとりに来るほど。
 こうした夏の風情もだんだんうすれ、テレビではクーラーをつけろ!クーラーをつけろ!命を守ってください、なんとも無味乾燥な夏になりはてたものだ。
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2018年07月31日

メディアの眼が小さすぎて不安になる。

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文科省科学技術・学術政策局長佐野太(58)が、馬鹿息子の裏口入学を画策、東京医科大学へ私立大学支援事業の便宜供与。
 馬鹿息子のために親が奔走する話なんぞは昔からうんざりするほどあった。とくに医科系大学では、寄付金の多寡がものりをいう。あいつは2.000万円、あいつは3.000万円、親バカ子バカで無駄金動く、と想定内のハナシ。

 財務省福田淳一事務次官、女性美人記者にセクシー・ハラスメント。
 報道志望の新入女子社員について、管理職はヒタイを寄せてシフトを考える。
あいつは行動的で少し美人だから、官邸行。あいつは色っぽくて危ない感じもあるから、財務省。身体剛健、丈夫だな、うん警視庁。取材能力が無さそうだから宮内庁担当。口にはださなくても、人事担当はそのあたりでシフトを作る。報道記者をめざす女性たちはそのくらいのことは覚悟のうえで乗り越えなければ、明日はない。「夜討ち・朝駈け・色落し」は報道の三原則、下賜されたニュースで間に合うのは宮内庁ダケ。

 財務省エリート主計官、朝日新聞アエラ美人記者と不倫生活、再度調べたら朝日新聞社員ではなくアエラ担当社外美人記者と判明。翌日から報道は消え失せた。

 IR特別法案、自民、公明の賛成で国会通過、いよいよカジノ具体化へ。
 かって民進党時代、野党にIR推進議員連盟があった。中心は長島昭久、松野頼久、約40名の議員が集まったとある。あの時は推進、いま反対、観客にはよく理解できない。新聞も追及しない。野党も博打の常習性に反対なら、まずパチンコ屋に営業規制をかけて、23兆円に及ぶ地下経済の息の根を止めたら如何。どうも主張することと、現実に疑問が生じる。パチンコの地下経済の恩恵をうけているのは、誰だ。

 帰国以来、台風大雨報道いがいの地上波、新聞のニュースが以上の通り。
 世界が狭すぎる。オリンピックの開会式担当にきまった野村萬斎の「テーマは鎮魂と再生」、えっ、それは国内のハナシで、世界のテーマにはならないだろう。議員宿舎の空き部屋で、赤坂亭と称して自民党の宴会をやるようなものだ。すべてが小さい。
 カンヌの出品作が「万引き家族」、なんだかイヤーな気になる。 
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2018年07月30日

クレージーホースが危ない

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 21世紀になってからの新旧交代、技術刷新、世代交代は目まぐるしく進んでいる。芸能のジャンルでも、次々と新しい顔、新しい表現が登場し目まぐるしいばかりだ。

 かってかかわっていたレビューの世界もまた新しい波に見舞われている。
 第二次世界大戦後、レビューの全盛期があった。東京では有楽町駅前に日本劇場、日比谷の東京宝塚劇場、そして浅草の国際劇場、ときに帝国劇場、江東劇場、新宿コマ劇場など加わって、レビューの華を競っていた。
 劇場だけでなくレビューはあちこちのグランド・キャバレーでも上演されていた。銀座のミマツ、白馬車、クラウン、ショーボート、あるいは赤坂のミカド、紅馬車、デビ夫人の働いていたニューラテンコーターなど、みな夜のクライマックスはショウ・タイムだった。

 その頃の世界のレビューは、ニューヨークのラジオ・シティ・ミュージックホールを頂点に、西はラスベガスのショウ・ビジネス、東はパリのムーラン・ルージュ、リドをはじめとするレビュウ、が燦然と絢を競っていた。

 それらのレビューが衰微の道をたどった最大の理由は、テレビの普及とジャンボジェットによる大量輸送が原因になったと考えられる。ジャンボジェットの普及はそれまで憧れだった海外に自由に行けるようになり、レビュウ舞台で繰り広げられるラテンやスパニッシュやフラメンコより、ずっとリアリティのある現実にふれることにより、舞台の虚構に観客はあきてしまった。そしてテレビのカラー化により、さらに現実よりキレイな景色がみられるようになった。 もはやレビュー劇場の役割は終わってしまったのだ。

 それでもパリとラスベガスには、いくつかのレビュ―劇場が頑張っている。
 各ホテルごとに劇場のあるラスベガスは、ディナーショーという形式でショーを上演してきたが、シルク・ド・ソレイユの登場以来、より観客の入るグランドシアターに切り替え、人手と厨房のいるディナー・ショーは閉鎖、スポーツ・カジノとシルク・ド・ソレイユにほとんどが変わってしまった。
 パリでもリドとムーランが観光客専門のレビューに変わり、かってイギリス娘とフランス娘がきそっていた舞台の熱気は何処かえいってしまった。辛うじてダンサーの魅力で人気を呼んでいたクレージーホースも、最近は照明や映像にひきまわされ、踊り子それぞれの魅力は消滅しかかっている。
 大人の魅力にみちたクレージーホースには、なんとか踏みとどまって欲しいと願うばかりだ。

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2018年07月25日

八重歯のシンデレラ・星由里子への追慕

八重歯のシンデレラ・星由里子への追慕

 ムーランルージュの演出で渡仏するまえ、東宝から凄い新人がでる、という噂をきいた。東宝ミス・シンデレラ娘コンテストで優勝したという。なんでも神田鍛冶町の乾物屋の娘で、5人姉妹の末娘ということだった。
 噂の娘は1959年に「星由里子」と名乗り、映画「すずかけの散歩道」で華々しくデビューした。
その頃渡仏準備に追われゆっくりと映画を見る間もなく、リハーサルの合間に抜け出し半分みて帰ってきたので、ズット奥歯になにかがはさまったような感じだった。
 彼女の品のいい明るいイメージは、あの頃の東宝カラーにぴったりで、クセのない庶民的な美しさで人気を集めた。

 帰国後、ふとしたことから彼女との縁ができた。
 60分枠のドラマで、東宝制作の枠があった。そのドラマの演出に擬せられたのだ。台本とキャスティングは東宝のプロデューサーが担当し、局は演出と営業を分担するシステムだった。
 配役の顔寄せではじめて噂のシンデレラに会った。主演にもかかわらずいちばん早くリハーサル場に入り、こちらが行くと立ち上がり小走りで側まできて、「おはようございます。星由里子です。」と挨拶された。さすが東宝の秘蔵っ子だけあって、しっかりと教育されてきたといった印象だった。台本もしっかりと読み込んできて、役の解釈も過不足なく演じてくれた。わがままで周りが困惑するスターもいるなかで、彼女は実に控えめで真面目に芝居をしてくれた。主演でも自己主張が強すぎると、まわりの役者たちとの和がたもてない、クセのない素直さには、大変助けられた。

 その頃、六本木に役者衆の集まる寿司やがあった。仕事の終わったスターたちが、三々五々集まってくる。美空ひばりも江利チエミもカウンターで寿司をつまんでいた。その寿司やの親方から「彼女が会いたいと言っている」という伝言があった。電撃結婚といわれ初めてのオメデタがわずか3か月で破れ、傷心のときだった。
 結婚相手への不満はひとこともいわず、映画の話に花が咲いた。ヨーロッパ映画のはなし、ハリウッド映画のはなし、明るく眼をキラキラさせて時を忘れた。

……京都で静かに暮らしているときいていたが、訃報はあまりにも突然だった。
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2018年07月23日

魔性の女・朝丘雪路

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 滞仏中、いくつかの訃報に接した。
テレビ朝日(当時のNET)の始まった頃、音楽番組の演出にも多々携わった。
 10代の視聴者には、ワタナベ・プロのタレントが人気があった。ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、布施明、小柳ルミ子、梓みちよなどが中心だった。
 20代になると男ではダークダックス、ボニージャックスなどが人気があり、女性歌手では水谷良重(いまの水谷八重子)、中原美沙緒、そして朝丘雪路だった。
 音楽の特集番組ではこの女性3人組を軸に構成することが、多かった。水谷良重は歌い手のなかでは、群を抜いてプロポーションにすぐれ、衣裳も体の線に忠実なマーメード・ラインのイブニングをきていた。大胆にだした背中にスタジオ・カメラマンは息をのんで、焦点をあわせていた。中原美沙緒は、伯父の中原淳一が衣裳デザインをしていたので、もっぱらフレアな可愛い路線だった。
 ……そして朝丘雪路、いつも彼女をめぐってトラブルが起きた。

 あの頃の音楽番組はまず音楽録音をして、段取りをして、本番になるという手のかかる制作工程だった。
当然のように衣裳の打ち合わせも事前にする。本番のドレスがかぶるといけないので、歌手3人を交えてドレスの打合せをする。
私は黒にするわ。私はブルー、私は赤と、それぞれのカラーも決まって、演出もほっとするのだが、当日思いがけないトラブルが発生する。

 歌手のひとりに呼ばれて楽屋にいってみると、泣いている。ユキエちゃん(当時朝丘雪路はユキエと自他ともに呼んでいた) に衣裳をとられたというのだ。昨日衣裳の色について順番をきめていたのに、本番前になって私の色の衣裳を着るというのだ。
 歌手同志の意地の張り合いはすさまじく、特にそうしたことでいつも台風の眼になったのが、朝丘雪路だった。
彼女のあとが出番の歌手は何時意地悪されてもいいように余分に衣裳を持ち込んでいた。

 料亭の女将の妾腹に生まれた彼女は異常なまでに、「パパ伊東深水」にこだわり、後に舞踊家になっても「深水流」を名乗ったほどだった。
リハに少しでも遅れてくると、いきなり演出の手を豊満な胸にもっていき、「ほらドキドキしているでしょ、ユキエ一生懸命走ってきたの。ごめんなさーい」
 身についた魔性とでもいうべきか。生涯電車の切符は買えなかったといわれるが、どこか無理を重ねた女が見え隠れした。コンプレックスと意地と見栄に疲れた一生だったと思っている。                  合掌
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2018年07月22日

アールヌーボーとアールデコ、ふたつのMUSEUM

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 パリ16区のギマールの建築に心惹かれ、アベス駅の見事な造形を横目にパン屋へ通っていた身としては、いつかブリッセルのアールヌーボー建築と対面したいと思っていた。

 ミスター・トム・ウィルソンはなんの前触れもなく、2日目の午後これから美術館に行こうと、言い出し、連れていかれたのが 世界遺産になっている「オルタ・ミュージアム」だった。
 アールヌーボーの父をいわれてるヴィクトール・オルタの自宅兼アトリエ、そこにはヴィクトール・オルタのアール・ヌーボーに対する情熱と美意識がぎっしりとつまっていた。タイル、石のモザイク、ステンドグラス、家具、建物の内装、ドア、階段、外装まですべてにアールヌーボーという新しい芸術運動に対する妥協のない造型が躍っている。ガウディのカーサなどよりもはるかに緻密な繊細さがそこにあった。エリック・サティの使っていたピアノなども置かれ、ああ今ここに居る、アールヌーボー建築発祥の地なんだという感動に包まれた。

 3日目のブリュッセル、ミスター・トムは、もうひとつの美術館にいこう、という。
 昨日とは打って変わったアールデコ様式のミュージアムだった。「ダヴット・アリス・ヴァンビューレン・ミュージアム」
手仕事の頂点に登りつめたアールヌーボーに対して、明日からの量産工業時代を予見して、コンパスと定規による新しい芸術運動を起こした気迫にみなぎったアールデコ建築だった。

 昨日のオルタ・ミュージアムにしても今日のダヴット・アリス・ヴァンビューレン・ミュージアムにしもいずれも個人の邸宅なので、そんなに広くない。ゆっくりと建物訪問しながら、作家の世界観について美意識について考えることが出来る。ほどほどの大きさのなかに、美術史上の近代における大きな課題がある、とても好都合なふたつのミュージアムだった。
 ブラッセルはまだまだ奥深いと想わせられた今回の旅だった。
posted by Kazuhiko Hoshino at 16:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする