2018年03月14日

巨星ジバンシー 旅立つ

巨星ジバンシー 旅立つ

 デザイン界の貴族ジバンシーが亡くなった。ジバンシーの思い出は尽きない。
 日本に於いて、ジバンシーを展開することになって初めてのショーに演出を依頼された。その時の最大のメッセージは、エレガントであってほしい。品性を重んじてほしい、それさえあれば細かいことにはこだわらない、ということだった。

 当時の日本では、ハリウッドの女優がきる洋服、アメリカの富豪が着る洋服という認識が圧倒的だった。
 オードリー・ヘプバーンはいつもジバンシーの洋服で、スクリーンに登場した。麗しのサブリナ、おしゃれ泥棒、シャレード、ティファニーで朝食を等々 折れそうな身体にジバンシーの上品な服がとても良く似合った。かの35代ジョン・F・ケネディ大統領の葬式では、ケネディ夫人がまとったジバンシーの喪服は世界中の話題になった。

 公爵の父をもち貴族の館に生まれたジバンシーには生まれながらのエレガンスがあったように思う。尖がったサンローランではなく、スポーテイなクレージュでもなく、ディオールと共にフランス・オートクチュールの王道を歩いた優れたデザイナーだった。
 ハリウッドで重用されたのは、歴史のないアメリカ人にとってヨーロッパ文明のシンボルがジバンシーだったともいえる。とくにアメリカの実質的支配層であるユダヤ系の人々に愛された。

 今シーズンのジバンシーのコレクション・テーマは、「ナイト・ノアール」だった。最後のイブニングは、首から胸にかけて、ウェストから脚にかけて、テキスタイルがうねる様に揺れ動き、繊細なドレープが不均衡で複雑な服のフォルムを完成して、ハッとする魅力をかもしだしていた。

 いまジバンシー・ブランドは、ディオールと共にユダヤ系LVMHグループの傘下になっているが、歴史的必然だったのかもしれない。
 感性はいらない。品性さえあれば、といったジバンシーの思いは、彼の死とともにますます遠くなっていく。               合掌
posted by Kazuhiko Hoshino at 13:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月13日

ふるさと返礼品に「お墓」???!!!

ふるさと返礼品に「お墓」???!!!

税金は現住所に収めても領収書しかくれないが、「ふるさと」におさめると、なんやかやと返礼品がいただける。貧乏なふるさとからは牛肉やビールがいただけるが、金持ちの大都市や軽井沢からはなにもいただけない。
 よく考えると不思議な制度だが、ふるさと創生とやらオカミの考えたことだから、きっと何処かでだれかが喜んでいるのだろう。

 ふるさと納税返礼品の人気ベストテンは圧倒的に牛肉が多い。山形舟形町の「山形牛A4ランク」佐賀宮城町の「黒毛和牛A4ランク」を始め、酪農のふるさとはみな牛肉に頼っている。
 次なるはやはり日常生活品のお米である。北海道浦臼町は「ななつぼし精米」だし、いまや全国ブランドになってしまった「こしひかり」もあちこちにある。山梨山中湖村の「富士清水」や、笛吹市の「ワイン飲み比べセット」、震災を受けた宮城名取市の「エビスビール」、など生活に直結した返礼品に人気が集まっている。変わり種には、元湯陣屋露天風呂付旅館宿泊券の神奈川秦野市というのもある。

 変り種のエースが登場した。軽井沢のおとなり小諸市の「お墓」である。墓がなく、思案投げ首の初老の人々にとってこんなに魅力的な返礼品はない。標高1000メートルに位置する小諸市営の「高峰聖地公園の合葬墓」への永代埋葬権がついてくる。北アルプスや浅間山を望むこのうえなく眺望にすぐれた墓苑に生前申し込みができる、寄付金額は24万円と少しお高めだが、いちど払い込めばそのあと共益費維持費なと一切なしで管理は小諸市が責任をもってしてくれる。高齢化社会によりそった素晴らしい返礼品といえよう。

 軽井沢のごとく、外国人の少ない私立のインターナショナル・スクール?に何億も寄付するよりは、はるか墓不足に悩む同胞への供養になると思う。
posted by Kazuhiko Hoshino at 15:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月10日

蕗のとうの苦さは春のときめき

蕗のとうの苦さは春のときめき

 名残り雪もおちついたので、オゴッソに昼めしを食べに行った。
 壁は渋くなり、環境テレビは掛花入れにかわって、ぐっとビストロ・ジャポニカ風になっていた。窓の外には社長の自宅から運ばれた石灯篭がおかれ、目隠しの竹屛で、景色は駐車場という殺伐さが消えていた。

 帰りしな柳沢さんが、蕗味噌を下さった。さっき山で摘んだ蕗のとうをきざんで、味噌にあえた超新鮮な蕗味噌である。蕗味噌のうえにはまもなく花になる蕗の芽が添えられてある。大きな体の柳沢さんに似合わない繊細な心ずかいだ。

 蕗のとうの苦さは春の苦さである。子供と毛唐には判らないと昔からいわれてきた。日本人のデリケートな舌に許された贅沢が春の山菜の苦さなのかもしれない。さっと天ぷらに揚げてチョンと塩をつけても絶品だ。
 山菜と天ぷらの相性もとてもいい。タラの芽、ぜんまい、こしあぶら、わらび、根曲がり竹、など天ぷらにはどれも合う。

 山菜の美味さを教えてくれたのは、50年程前の越中利賀村の春祭りだった。豪雪に閉ざされた利賀村に春が来るのは四月の末、いまは亡き水田ガイ氏さんに招かれ、村長さんの家に泊まった。その時のご馳走が山菜ずくしの祭り膳だった。
 15,6種類の山菜がお浸し、胡麻和え、煮つけ、天婦羅などいろいろな調理で赤飯と共にお膳に並んだ。その時初めて畑の野菜の味気無さに気がついた。山菜の贅沢を覚えると、しばらくの間スーパーで売っている畑の野菜の虚しさに囚われた。

   " 命がけ 熊と取りあう ふきのとう "

 今夜は山形のつや姫を炊いて、ほろ苦い甘みの蕗味噌で春を楽しもう。、
posted by Kazuhiko Hoshino at 19:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月09日

北の嘘つきと南の嘘つき

北の嘘つきと南の嘘つき

 北の嘘つきと南の嘘つきが集まって、嘘つき大会を開いている。

 南の嘘つきは、1965年6月に第二次世界大戦の後始末として、日韓請求権協定を結び「完全かつ最終的に解決」、日本から当時韓国の年間予算3.5億ドルをはるかにこえた5億jを得、その金で「漢江の奇跡」を成し遂げた。
 朝日新聞の捏造に始まった慰安婦問題では、歪曲した事実をもとに河野談話を発表させ、さらに村山富市首相にアジア女性基金から元慰安婦への償い金支払いをさせた。
 2013年には、朴槿恵大統領の「千年の恨み」発言をきっかけに、アメリカ立ち会いのもとで日韓慰安婦合意「最終的かつ不可逆的に解決」した。和解癒し財団に日本から10億円拠出させた。
2017年には文在寅大統領が「問題は再燃するしかない」…
 約束を守らない、国際的な条約も、平気で反故にする国家的嘘つきの常習犯が、南の嘘つきだ。

 北の嘘つきも負けていない。
 1970年代に日本のあちこちで発生した拉致事件では、知らぬ半兵衛を決め込み、そんなことある筈はないと、日本の左翼とともに知らぬ存ぜぬを決め込んだ。
 2002年小泉純一郎訪朝時にようやく13人拉致を認め、8人死亡、5人帰国を実施した。その後、拉致被害者特別委員会を設置したが、なんの調査報告もなく、六か国協議の決議も裏切って、ひたすら地下核実験を重ねた。その後核実験は水爆実験に格上げされ、2016年には人工衛星と嘘をつき、長距離弾道ミサイルの発射実験に踏み込んだ、そして核積載の長距離弾道ミサイルでアメリカ中をカバーするところまで、戦力を整えた。
 北の嘘つきは世界中を恐怖に追い込み、平昌五輪を見事にのっとった。

 嘘つきと嘘つきが会議すると世界中が信じなくなる。これはイソップ物語の話だけれど、オオカミが来たと本当のことをいっても誰も信じてくれない。
 北の嘘つきと南の嘘つきのお話で、最後に喰われる羊はどこにいるのだろうか。
posted by Kazuhiko Hoshino at 15:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月07日

少しエロい「夜のペヤング・マカ入り」

少しエロい「夜のペヤング・マカ入り」

 事務所に向かう途中、週刊誌を買おうとコンビニに立ち寄った。反対側の棚の真ん中あたりに眼が吸い寄せられた。雑然としたインスタントものの真ん中に、黒いパッケージで妙に垢ぬけたデザインの箱がある。「やきそば・夜のペヤング・ピリ辛ソース味」とある。
 夜店の一平ちゃんやきそばなど、昭和のデザイン風になれた眼にははなはだしく新鮮にみえた。ひとつ買い求めて事務所に向かった。
 めざとく見つけたスタッフが、「夜のペヤング」とは意味深ですね、とつぶやく。そうか単純に受験勉強徹夜の友と考えていたのは浅はかだった。パッケージをよく見れば、下のほうにマカ入りとある。マカは精力増強や、不妊対策にも効くという霊薬である。つまり初めから「夜」は学生の夜ではなく、大人の夜だったのだ。
 群馬伊勢崎のまるか食品はなかなかにしぶとい会社と感心した。数年前やきそばにゴキブリが入っていた事件では、あっさり工場を閉鎖して半年ものあいだ、すべての販売を中止した。
 ペヤング発売時には、ハシを二膳つけて二人仲良く食べて欲しい、と話題の戦略に訴えた。青春のペヤングは夜のペヤングに進化した。
 振り返ってみれば、ペヤングは始めから少しエロかったのだ。

 半世紀前、始めてやきそばが売り出されることになって、祇園のお座敷で話題にしたところ、一斉に攻撃された。「お兄さん、フライパンで焼かんと、お湯たしたら焼きそばができるなんて、冗談もいい加減におしやす。」「オヘソが茶沸かす、みたいな話や」さんざん笑われて、市井に出回ってから、「焼きそばいわれれば焼きそばやけど、焼いてないのに焼きそばいうのは詐欺やおへんか」ととことん非難された昔を思い出した。

 ペヤングの製造元まるかのホームページを覗いて感心した。
 レギュラー・サイズを二つつなげて超大盛のブームをつくったり、暑い夏にぴったりの四川風やきそば、マヨ付きのからしマヨネーズやきそばでは、パッケージはキューピー・マヨ風だったのに実際使ったのはケンコー・マヨだったり、湯切り不要のスープ入りやきそば、油断できない辛さの激辛やきそば、超大盛やきそばハーフ&ハーフ激辛の三回美味しいヤキソバと、工夫の歴史だった。
 マカ入りの夜のペヤングには、それなりの歴史があった。

posted by Kazuhiko Hoshino at 14:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

危うし 京都平安神宮!!

危うし 京都平安神宮!!

 誇り高い京都人が、いちもにもなく尊崇している平安神宮が危機にさらされている。
 昨年末、鉄骨二階建て、延べ床面積約3100平方メートルの商業施設が平安神宮境内にオープンした。看板は「京都時代祭館十二十二」、土産物店、飲食店、免税店など28のテナントが入り、この夏のグランドオープンには例のAKBスタイルの劇場がオープン、さわがしい少女歌手グループの京都基地になる予定とか。看板にこそ時代祭の名が入っているが、中味はまったく時代祭とは縁もゆかりもないただの商業施設なのだ。

 この事業を回している中心人物はかって裏千家の顔として千玄室大宗匠の秘書をつとめていた足立健司なる人物、京都平安振興財団をつくり、裏千家家元、玄室大宗匠以下京のお歴々が名をつらねている。
 この財団は、平安神宮とのあいだに事業用定期借地権契約を結び、その土地に地上権を登記した。その土地の地上権を担保に朝鮮系信組から15億の資金を引き出し、その土地には根抵当権が設定されたのだ。もしこの商業施設の商売がとどこおれば、平安神宮は境内のこの土地を失ったうえ、なにが建てられても文句はいえない。

 融資した総連系の信組すなはちハナ信組とは、いかなる信組かということが問題になるが、この信組は関東にあり、信組法により関東以外の地にある事業体には法的に融資できない。そこで動いたのは宇都宮市内にパチンコ、焼き肉、スパなどを展開する南大門ホールディングス、この南大門ホールディングスが声高にハナ信組に融資話を持ち込んだとされている。
 事業体が遠く京都では法令違反になるので、あきれたことに宇都宮市内の空きビルに京都平安振興財団の宇都宮支所がつくられた。京都時代祭館十二十二の運営会社京都平安プロパティの役員には、南大門ホールディングス専務やら暴力団密接関係者が名をつらね、いつ何が起こっても不思議ではない。

 裏千家と暴力団密接関係者とそして朝鮮系商売人、北朝鮮金融資本にあやつられた平安神宮千年騒動の予兆が始まっている。
posted by Kazuhiko Hoshino at 15:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月05日

「長命寺の桜もち」が恋しい

「長命寺の桜もち」が恋しい

 春一番が吹くと恋しくなる。
 向島「長命寺のさくらもち」桜餅である。
 浅草から吾妻橋を渡り、桜の木のしたを左へたどると、やがて土手沿いに桜餅やがある。
 長命寺の門番・山本新六によって始められた元祖長命寺のさくら餅だ。
 六本木にいた頃は、仲間とクルマを連らね、山本やの赤毛氈の縁台で、さくらもちのティタイムを
楽しみに隅田堤をめざした。

 いまでは有名になりすぎて花見客であふれるが、もとをたどれば八代将軍吉宗の命によって植えられた隅田の桜堤だ。そのさくらの葉から生まれたのが桜餅だから、将軍吉宗の功績は大きい。
 芝居小屋では、先月襲名披露で評判を呼んだ松本幸四郎一世が江戸町衆の人気を集め、助六でお馴染みの河東節が流行っていた。いなせな江戸町火消が生まれたのも、桜もち誕生と前後している。
 享保年間というのは、江戸の都市機能が完成し、ようやく爛熟期に入ろうとしていたそんな時代だったのだろう。

 明治21年には、正岡子規がこの山本やの二階に下宿し、残したうたがある。
 "花の香を若葉にこめて かぐわしき  桜の餅や つとにせよ"

 桜もちを包んでいる塩ずけの葉は食べるべきか、残すべきか、とときに言い争いになるが、その香りとともに食べるべきという人が多い。遠く奈良時代歯磨き粉のない時代には、塩ずけの桜の葉は口臭予防につかわれていたという。

 帰途、素朴な竹かごにはいった「長命寺のさくらもち」をもとめ、近所に届けると、なによりの春がきたと喜ばれた。
posted by Kazuhiko Hoshino at 22:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

女の病は淡島さんにいってつかんせい

女の病は淡島さんにいってつかんせい

 3月3日の今日は、日本中でお雛様が流されている。
 桟俵にのった紙で作られた素朴なお雛様たちである。
 つとに有名なのは、鳥取用瀬町の流し雛、京都では下賀茂神社での御手洗川への雛流し、軽井沢の近辺でも北相木村では、かなんばれと呼ばれる雛流しがある。

 流し雛のウンチクでは、淡島さんの信仰を外すわけにはいかない。
 女性の病については昔から「淡島さんにいってくれ」とか「帯のしたの病いを治してつかんせい」とか、謎であった女性の病への治癒祈願、予防祈願をつかさどっていた淡島明神への信仰がもとになっていた。天照大神の第六女と伝えられる淡島明神が住吉さんと結婚するもシモの病いにかかり、堺の浜から流され3月3日に紀伊の国加太の浦についた、というところから物語がはじまっている。
 今風にいえば、この淡島明神を祀った加太神社から、淡島願人なる遊行僧、もっといえば乞食坊主が生まれて全国にひろがったのが淡島信仰なのだが、淡島願人が日本各地につくった淡島堂からこの流し雛という信仰行事も始まっている。

 病院もなければ、医者も居なかった時代、病を紙型にうつしたり、人形に移して川に流し、淡島さんまで流れ着いて治癒して欲しいという素朴な祈りの行事だった。
 いまでは川に桟俵や人形を流したら水が汚れるとか、衛生上良くないとか、あまり説得力のない理由から、すぐ下流で雛たちは回収されてしまうので、とても紀伊の国淡島さんまでは流れ着けない。結局病いは治らないように人間達がしているのだ。
 桟俵も川に沈めば自然に帰るし、雛に託した祈りだけが淡島にとどいて、病い全快となるかもしれない。
 祈りを失った民族は誰からも救われない。
posted by Kazuhiko Hoshino at 22:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月02日

民俗芸能のデータ化を疑う

民俗芸能のデータ化を疑う

 郷土芸能、または民俗芸能、いずれにしてもこの国はそうした芸能の王国である。
 暮らしのなかに多彩な芸能があった。ある時は願いであり、祈りであり、喜びであり、感謝であった。そうした民族芸能も敗戦とともに、没落への道をひたすらあゆんでいる。
 没落のきっかけは、無形民俗文化財指定という暴挙からだった。その芸能の存在する意義をみつめないで、芸能の形式だけを役所が顕彰するという役所仕事の犠牲になったのだ。
 素朴な農民は代官様が認めてくれたとばかり、小旗をつくり、公民館やら公会堂の舞台で晴れがましく芸能を演じた。農耕や暮らしによりそった芸能が、目的を見失って興行芸能になっていった。

 それでも全国には、多くの祈りの芸能や感謝の芸能は生き続けている。
 圧倒的に多いのは東北である。福島原発事故のおかげで、土地そのものを奪われてしまった飯館村には、田植踊があった。田植えのときの予祝の踊りだ。
 南三陸町には本浜七福神舞があった。歳の初めの祈りの舞である。海も土地も核に翻弄され、生産する暮らしを奪われたのだから、当然のように芸能の担い手もいなくなり、後継者もみつからない。

 そこに登場したのは、東北大学の研究者グループだ。
 最後の民俗芸能の担い手の体中にセンサーをつけ、モーション・ピクチャア技術とやらで田植踊と七福神舞の動きをデータ化し、保存しようという企みである。
 物珍しさも手伝い、メディアもお役所も話題となっているが、芸能の意味も目的も失った動きだけのデータに、どれほどの価値があるのだろうか。
 芸能を含めた農耕そのもの明日のすがたに、研究の対象がなければ無意味な試みとしか思えない。
 近頃の歌舞伎がつまらないのは、若手がみなヴィデオで勉強するので、上面の芝居にしかならないと友人がなげいていたが、センサー保存の民俗芸能は所詮メカの遊びにしかならないのでは、と考えている。
posted by Kazuhiko Hoshino at 11:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月01日

いまでは信じられない「三越前駅」

いまでは信じられない「三越前駅」

 少年期「地下鉄」ときくとワクワクした。
 国鉄(いまのJR)は、どことなく事務的であったし、遠くに行かねばならないその為に乗るといった目的感が大きくて子供心に夢がなかった。路面電車はそこらじゅうを走っていて、生活感にあふれていた。本郷からは路面電車を乗り換えてあちこちへいった。
 当時路面電車というような科学的な呼称は使わなかった。すべてチンチン電車だった。停留所についたとき、出発するとき、車掌さんが紐を引っ張ると、運転席の後ろに取り付けられていた鐘がチン、またはチンチンとなって乗客をうながした。あの鐘のチンからチンチン電車は生まれたと信じている。

 地下鉄銀座線には「三越前駅」があった。デパートの名前がそのまま駅名になっている珍しい駅だ。そのうえ三越本店と直結していた。いまでは地下道が網の目のように走り、デパート直結など珍しくもないが、当時は画期的だった。地下鉄から三越へ入る入口には沿線随一のゴージャスなステンドガラスによる駅名板があった。今でもあるかもしれないが、子供心にこんなに贅沢な駅看板をみたことがなく、アールヌーボー風な三越前駅の看板のまえでしばし見とれていたことを覚えている。
 「今日は帝劇、明日は三越」とうたわれた時代だから、デパートはディズニーランドより、ユニバーサル・スタディオよりも夢のいっぱいつまったワンダーランドだった。

 地下鉄銀座線には、上野広小路駅(松坂屋前)や、日本橋駅(高島屋前)という駅もあったし、終点浅草は松屋前だった。銀座線はデパート全盛期に主なデパートをつないでできたレジャーラインだったともいえよう。
 三越前駅はそっくり三越がお金を出して作ったので、そのまま三越前駅になったと後年しらされた。それに引き換えカッコ松坂屋前や、カッコ高島屋前は、地下鉄の情報サービスだったのだ。

 デパートの屋上には飛行船やら、滑り台、動くお馬、小さな舞台では人形劇もやっていた。日曜日にデパートの屋上で遊ぶというのは、下町の子供たちにとって憧れの時間だったし、お腹がすいたら下の大食堂で小さな旗の立ったお子様ランチを食べるというのが、幸せの日曜日だった。
posted by Kazuhiko Hoshino at 07:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする