2018年11月09日

ジュリアン・ソレルからアマンドの時代

 ジュリアン・ソレルからアマンドの時代

 戦後はじめの下着やは銀座6丁目並木通りの角にできた「ジュリアン・ソレル」だった。
 その店にはハリウッド直送のピンクのショーツやランジェリー、フランス渡りのブラ、ガードルなどが飾られ、横文字かぶれの女性やら、銀座超高級オミズが出入りしていた。鴨居羊子などという怪しげなデザイナーが登場するずっと前の話である。
 ある時ジュリアン・ソレルのオーナーがお店の西側つまり並木通りに沿った処に、お洒落なカウンター・カフェをつくった。大きなガラスで並木通りを歩くカップルからは丸見え、暗い灯りの名曲喫茶が流行っていた時代に画期的なカフェだった。いつも目の前の並木通りには派手なアメ車やジープが止まっていた。駐車禁止もなく銀座のそこここに車が止まっていた時代だ。
 「並木通りのジュリアンにいるから……」とは、放課後待ち合わせのサインだった。

 コーヒーにうるさい輩は、あずま通りのトリコロールに集まった。小さなエクレアをたべコーヒー談義に華を咲かせた。店頭にはいつもフランス国旗がひらめいて外国気分に充たされていた。

 土橋通りの電通に初めて小さなスタジオができた。民放ラジオの始まりは、この電通スタジオと、博報堂の屋上にできたバラック風スタジオと、有楽町駅前毎日新聞社屋に隣接したプラネタリウム・スタジオだつた。みんな狭い不自由な空間で、連続放送劇やドキュメンタリーの収録にはげんでいた。
 電通の打合せはいつも土橋通りを渡ったところにある銀座ウェストだった。ウェストは妙に清潔で上品な空気がただよい、ラジオ番組の打合せにはいまいちシックリしなかった。

 有楽町にアマンドが出来たのもその頃だった。元宝塚の麗人がキャッシャーをつとめ、オーナーの滝川さんの愛人だという噂に尾ひれがついて評判となった。越路吹雪も寿美花代もタカラジエンヌも、帝劇、日劇のスタッフもみなアマンドで終電までたむろしていた。

 帝劇も日劇も宝塚も舞台稽古のとき、必ずアマンドからパルミパイとコーヒーの差入れがあった。稽古の合間にみなロビーのテーブルに群がってアマンドのコーヒーとパルミパイに癒された。
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星野和彦パリ展帰国記念

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2018年11月07日

ハロウィンはオカルトである

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 ハロウィンとは仮想して酒を飲んで渋谷に行く日、と思い込んでいる馬鹿者が後を絶たない。
 ラーメン屋の券売機に水を入れてぶっ壊してどこが面白いのか判らない。軽トラをひっくり返しボコボコにして嬉しいのか。渋谷の中央通りにある軽トラならささやかな商売で日々をつないでいる商人だ、ということへの想像力もないのだろうか。ひっくり返すならIT長者のキャデラックでもひっくり返したらいい。渋谷のハロウィンはただの馬鹿者たちだと思う。

 1992年にアメリカのルイジアナでハロウィンの夜、フリーズと言われても止まらず射殺された日本人の留学生がいたが、これなども生半可な知識で仮想して歩き回った結果だった。何の意味も考えないで仮装に走る若者たちに共通していえることだ。
 何故幽霊に扮するのか。魔女に変身するのか。悪魔やクロネコやゾンビになるのか。そんなに深く考えなくてもいいが、変装するキャストの意味ぐらいは理解しておいた方がいい。
 カボチャのランタンをみて、農協のお祭り? といった女子がいたが、大学生の今日まで誰も彼女にジャック・オー・ランタンの意味を教えなかったという現実がある。

 日本では70年代に原宿のキディランドで、ハロウィンの関連商品がうりだされ、これに眼をつけた代理店や菓子メーカーが目先の商売に利用しようと始めたのがそもそもなのだが、こうした年中祭事が学校教育から欠落していて、いわゆる商売の仕掛けと通過儀礼に対して無知な若者が圧倒的に多い。
 そのためディズニーランドでやっている、ユニバーサル・スタジオでもやっている、だから俺たちもやるということになる。

 いまの若者にはストレスがたまっているからと、わけしりに解説をくわえていたテレビもあったが、ひとえに教育の責任であるし、宗教教育の欠落だと思う。
 ローマ・カトリック教会は、ハロウィンはオカルトであると断じ、世俗の悪魔や魔女を楽しみとするような誤った方向へのイベント化はぜったいにいけないと発言している。
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2018年11月06日

ぬるま湯の戦場ジャーナリスト

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 安田純平さんがやっと解放された。
 安倍総理みずからカタールとトルコには大変お世話になったといっているので、シリアのヌスラ戦線に対して、身代金を払って解決したことはたしかだ。ヌスラ戦線の身代金ビジネスは、一人当たり300万jから2700万jといわれているのて日本円にして3億円から30億円、そのどこかに落しどころが隠されている。

 何時の頃からかテレビのワイドショウなどに戦場カメラマンと称する人が登場するようになった。世界の大手通信社のクレジット付戦場写真はまま眼にすることはあっても、テレビにでている戦場ジャーナリストや戦場カメラマンのリポートなり写真をみることはほとんどない。この人たちはほんとうに戦場で仕事をしているのかどうかたしかめようがないのだ。

 9.11同時多発ロのころから、テレビ局や新聞社は自社スタッフを戦地に派遣しなくなった。戦争を知らない人間を戦場に派遣してもリスクが発生するだけで無意味な報道が返ってくるだけ、泥水をすすり、塹壕で銃をかかえて何日も仮眠をとるだけの戦場の常識が彼らには全くなく、都会育ちのぬるま湯環境があたりまえのリポートしか返ってこない。
 戦場ジャーナリストも、難民キャンプを取材する難民ジャーナリストになっている。難民キャンプは戦場から逃れてきた人たちのための場所で、難民を取材しても戦場ジャーナリストとは言い難い。
 もっとも彼らにとっては難民キャンプを背景に1分ほどの現地生中継をこなせば、4万程のギャラがふりこまれる。一分4万円ということは一時間240万円のタレントになった計算だ。戦場で働きたいというのは、おおよそ難民キャンプを覗きたい程度なのが日本の現状でもある。

 戦場ジャーナリストや戦場カメラマンを志すならば、まず国内の自衛隊で何か月かの体験入学をし、戦争のリアルを知ってから紛争地に向かうべきだろうし、もっといえば欧米の外人部隊に参加して戦場を把握してから、戦場ジャーナリストを試みられたらよかろう。
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2018年11月05日

星野和彦パリ展帰国記念

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 今年5・6月にかけてパリで開きました個展の帰国記念展を銀座ギャラリー座ストーンで開かせていただくことになりました。
 これはここ数年テーマにしていました「心象派フォト」PARISーTOKIOの集大成でもあります。
 パリで好評をえました写真表現と詩情の競演をご覧いただけるとさいわいです。
 期間 11月12日(月)から18日(日)毎日12時から19時まで開廊しています。
               12日と18日の16時から作品解説をいたします。
 会場については下の地図をご参照ください。

星野和彦パリ展帰国記念
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2018年11月04日

韓国は存在しなかった歴史を裁く

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 国家としての態をなしていない。 (中曽根元外相)
 怒りを通り越して呆れる。 (新藤元総務相)
 極めて極めて極めて遺憾。 (阿部外務副大臣)
 河野外相はカンギョンファ外務大臣にたいして、1965年の日韓請求権協定によってすべて完全かつ最終的に解決したと合意した、にもかかわらずこのような判決がでるのはまったく理解できない。このような状態が放置されるようならば、今後韓国とはすべての約束ができない。と強硬に申しいれた。
 評論家の石平氏は「朝鮮半島に関わってはいけない」と題する新刊をだした。

 戦争中、新日鉄住金で働らいていた朝鮮人4名が慰謝料を寄こせ、と訴訟をおこしたのだ。下級審では退けられたにもかかわらず、最終上級審である大法院が払うべき、と判決を下した。が戦争中韓国は日本の統治下にあり、大韓民国はそんざいしなかった。存在以前の歴史を裁くなどあまりに非常識なことではないか。 そもそも戦時下にあって勤労動員という掛け声はあったが、強制労働などという事実はなかった。
 慰安婦問題でも同じだが、韓国の売春業者によってあちこちへ行っていた事実をすべて軍による強制売春に書き換えて世界中に振りまく、とんでもない国が韓国である。
 石平氏も自分達の問題に外国をひっぱりこんで被害者になりすますのは、朝鮮半島2000年の伝統芸だ。日清戦争のときもそうだったではないか。日本は日韓併合などすべきではなかった。朝鮮半島に学校をつくり、道路を整備し、すこしでもいい国にしたいと努力した日本はかえってうらまれてしまったような変なことになっている。ひとえに韓国人の困った体質であると、いっている。

 2004年ノムヒョン大統領のときすでに兆候があった。国務院総理直属の国家機関として設立されたのが、対日抗争期強制動員被害者調査及び国外強制動員犠牲者支援委員会という長い名前の対日抗争政府機関であった。こうした政府の恣意的団体があって民間をあおって活動させている事実がある。2004年という年は「冬ソナ」なるドラマが日本に上陸し、日本の四千万女性が涙を流し、韓国へ、韓国へとなびいていた。
 とくに反日があきらかな文在寅大統領のもとにあつて、この徴用工問題はかなり尾をひくことだろう。韓国2000年の伝統芸なのだから。
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2018年11月01日

新聞販売店の廃業

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戦後70年近く軽井沢とは縁がつづいている。
7月に旧軽井沢の素朴な別荘にきて、駅近くの新聞やさんにこの夏もお世話になりますから、よろしくお願いします、と顔をだすとニッコリと翌日から新聞がとどいた。

 中軽井沢に転居して、地区独占の岩井新聞店に配達以来をしたら、けんもほろろに断られた。あそこは別荘地だから配達しません。町役場から5分も離れていないところなのに何故配達してくれないんですか。……新聞本社に掛け合っても駄目、町役場に掛け合っても駄目。軽井沢町の広報も議会たよりもみな新聞の折り込みで配布されるので、新聞の配達がなければ一切の地元情報が遮断される。
 住民としてこんな不便なことはないので、町役場にしつこくアピールしたところ、3年目から郵便物で広報、保健所たより、議会たよりがとどくようになった。まだネットのない頃だったので、「軽井沢はマスコミに向かって体裁のいいことをいう情報過疎地だ」と多いに憤慨していた。

 軽井沢駅に隣接して町営のパーキングができた。通勤で駅までクルマできて、信越線でかよう町民にはパーキングの割引券をだしてくれる、これは有難いと役場へでかけた。こんども窓口であっさりことわられた。週4日しか東京へいかないのなら、働いていると認められないというのだ。1週間のうち6日通っていないと働いていると認められない。ファックスやパソコンは労働していると認められないと、役場の職員はかたくななのだ。  軽井沢という町は救いがたい町だとおもった。

 別荘住民の大賀さんの寄付で、大賀ホールができた。町民の音楽振興のためと思い有り難いことと認識した。ところが町民のホール使用についてなんの特典もない。外から来た金儲けのコンサートと町民の技能発表会が同じ扱い、近隣のホールはたいてい町民使用のさいの割引制度があるが、軽井沢にはない。

 この度かの岩井新聞店が閉店することになった。20台近くの配達用の車の処分先はとか、いろいろきになるが、新聞の斜陽は覆うべくもない。新聞販売店が従軍慰安婦のことを書いたわけでもないのに、フェイクニュースの影響をうけ、販売部数はあきらかにへっている。結婚する若者カップルはいるが、例外なく新聞はとらない、勿論固定電話もいらない。すべてはスマホで間に合うのだ。

 百科事典も計算機も雑誌も新聞もカメラも銀行も電話も、すべてスマホですむのだから、スマホは人間より優位にたって、やがてスマホが旅にでたり、病院にいったりするようになるかもしれない。その時人間は何をしていたらいいのだろう。

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2018年10月31日

南座のお練りと手打ち

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 京都四条大橋のたもとから祇園神社までの四条通りをクローズして、華やかに「お練り」がおこなわれた。芝居小屋発祥の南座の耐震工事、内部改修が3年近くかかり、このほどようやく竣工したその披露のためのお練りだ。
 南座は出雲の阿国が鴨川河原の掛小屋ではじめて歌舞伎踊りを披露した地として歌舞伎の聖地になっている。その劇場のご披露とあって、歌舞伎役者69名が勢ぞろいした。先導は地元祇園を始め、宮川町、先斗町の舞妓20人、紋付袴の正装で名題の役者衆が揃い踏みの歩きお練り、いつものお練りなら銘々人力車にのっての手振りだが、この日役者が多すぎて人力車がまにあわない。そこで時蔵も雀右衛門も海老蔵もみんな仲良く歩くオネリとなった。沿道には15000人のファンが集まり、スマホをかざし黄色い声をあげた。

 お練りというのは、南座ばかりではない。2013年に新しい歌舞伎座ができたときは、銀座中央通りで「GINZA花道」というお練りが行われた。江戸消防の纏振りと木遣りを先達に60名の役者がそろった。この時、銀座八丁に3万2000人が集まって紙吹雪をまいた。

 大阪みなみの松竹座では、「船乗り込み」という川と運河をめぐってのお練りが度々行われる。先年亡くなった勘三郎はこの船乗り込みが大好きだった。文楽では人形のお練りがあるし、四国こんぴら歌舞伎では1000本幟のなかを役者をのせた人力車がいくお練りが毎年おこなわれてる。東京では襲名披露の折、浅草浅草寺の境内で「お練り」が行われる事が多い。これは一帯を縄張りとする新門辰五郎とめ組の一家がとりしきって浅草寺境内で挙行する大入満員祈願のお練りなのだ。

 本来「お練り」というのは、興行の勧進元が出演する役者を連ねて町内に挨拶回りと広報の役割を果たす行事だったのだが、いまでは景気付けのための催事になってしまった。

 昔ながらの役者の芝居小屋への乗り込みを、形として残しているのが祇園甲部の花街である。「手打ち」とよばれている。
あたまに手拭を留め、黒紋付に小さな拍子木を打ちながら芸妓衆が列をなし、後ろにご贔屓の役者が連なって芝居小屋まで乗り込む。
 〽チャンチキチキ、チャンチキチ、チャンチキチキ、チャンチキチ……
 その昔はあちこちの花街、お茶屋さんやら、料理やさんからご贔屓の役者を先導しての手打ちの行列が、都大路を賑わしたと伝えられている。
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2018年10月29日

丸山公楓の自由花パフォーマンス

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 ファツション・モデルと一概にいうが、モデルにもいろいろある。
 雑誌専門つまり写真のためのモデル、そしてメーカー専門のモデル、これはメーカーに洋服を仕入れにくるバイヤーのためのモデル、ここでは標準サイズのモデルが多用される。そしてオートクチュールのコレクションモデルである。ステージ映えのする大型モデルが珍重される。一般人はモデルと呼んでまとめるが、それぞれのタイプによって姿カタチのみならず、人格、脳みそまでいろいろなのだ。
 雑誌専門それもファッション誌ではない月刊誌相手だと、顔、胸、尻ときてその後ようやくファッションなので、モデルたちは特定のスタッフや編集者たちの世界にどっぷりで、どうしても視野がせまくなる。コレクションモデルは、すべてに寸法優先でひときわ大きい女達なので、優越感も劣等感も半端ない。いつまでもモデル臭がついてまわる。そこへいくとメーカーのサンプル・モデルを経験したモデルは、ノリシロが広い。メーカーの服への心ずかいから、バイヤーの表情のよみとりとコミュニケーション能力と目の前での着こなしのセンスが問われる。

 そのノリシロから人材が生まれている。女優に転じた人、ブランド・ショップの店長になっている人、茶道教授の人、レストラン経営者、デザイナー、舞踊家、スタイリスト、サロン経営者、そして健康食品オーナー、華道家とモデル出身者も多士済々である。

 華道家として第一線で活躍しているのが、むかしモデルの丸山公楓さんだ。モデルの頃は可愛くて品のある無類に真面目なモデルだった。
 公楓さんは今龍生派の幹部として東奔西走している。草月会、小原流等とは仕事での付き合いもあり、流派の思想についてもいくらかは判ったつもりだが、龍生派は判らない。なにはともあれ渋谷東急本店のファサードで、活け込みのパフォーマンスをやるというので、うかがった。

 初代家元は初め池坊を学んでいたが、出生重視に反発して新しく龍生派を立ち上げたという。龍生とは不思議な名と、ググったら岡崎龍ケ城に因んで付けられた名前と納得した。立華生花とともに自由花では建築などともコラボして創作しているとあり、期待はふくらんだ。
 ナンヨウスギの投げ入れに始まり、白柳の枝をかけ。さらに大きなケシの花を咲かせ、ユリの花で終わったと思ったら、上下から金銀のテープが舞って終わった。
 無味乾燥なデパードの壁面に命がやどったような作品だった。騒がしいだけのシブヤでこうしたパフォーマンスが開かれるのは大賛成。ただし前座のモノマネ芸人は意味不明だった。
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2018年10月27日

仁左衛門の助六

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歌舞伎の人気コンビに「玉孝時代」たまたか時代というのがあった。
 玉は玉三郎、孝は孝夫、いまの仁左衛門である。人気はすさまじく満天下の子女が歌舞伎に殺到した。「声よし、顔よし、姿よし」の片岡孝夫の右にでる二枚目はいなかった。玉三郎の若き頃の色艶も神秘的な魅力を秘めて、このコンビは不動の評判をえていた。

 あれから半世紀、孝夫は片岡仁左衛門を襲名し歌舞伎の伝統を支え、玉三郎は舞踊を中心に時に演出の仕事にも携わって今日を迎えている。
 その仁左衛門、玉三郎の出演する歌舞伎座芸術祭公演をみた。夜の部といっても4時半開演なので、昼間から軽井沢を出立しなければならない。

 まず始めは「宮島のだんまり」、パントマイムのような歌舞伎独特の表現がおもしろい。波幕のまえ、ホリゾントを黒幕にした夜の闇まえ、そして宮島の社のまえ、判りやすい道具環境のなかで演じられる無言のスローモーションは、若手が頑張って演じていて、楽しい一幕。

 二番目の「吉野山」は玉三郎のだしもの、玉三郎の静御前と勘九郎の狐忠信が芸の細かさをみせる。清元と竹本、静と動との音楽の対比がからんで、ドラマが進行するところが面白く、終盤花四天がからんでの所作タテも、争いを段取りの殺陣でみせる歌舞伎ならではの表現。

 そして待望の「助六」、成田屋の河東節助六とは違い、長唄の助六もまたひとつの風情である。仁左衛門の助六は、いかにも二枚目の助六で男前の優雅な助六に仕上がっていた。とかく江戸っ子はこれみよがしの助六を嬉しがる傾向にあるが、たまに仁左衛門のような上品なもて男もいい。片岡仁左衛門による助六もこれで見納めかと思い、思い過ごしであってほしいと江戸吉原のむかしを楽しんだ。

 ブリッセルに住むほとんど外人の日本人を同伴したのだが、日本知らずの日本人はひどく感激していた。帰国のたびごとに歌舞伎を見るのだが、いまいち判らなかった。私のなかの歌舞伎では、今日はいちばん楽しく面白くよく判った、ありがとう、シアワセの一日でした。という感想がかえってきた。

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